今日エクス・ポ古川日出男増刊をもらってきてつい読んでしまった。最後読んだ日記のとこに偶然とりあげられてたエイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』を読み終えた。関係ないけど、こういう偶然ってすぐ忘れるなぁ。
《そして例えば、この物語の中で「わたしは、この神〔戦さの神〕に、一種の声のようなもので話した」とか、「彼は、一種の声のようなもので、ドラムに命じた」という形で表現されている`a kind of voice'の中に、わたしは、人間と神およびドラムの間に、目に見えない生命の、Forceの交流があるのを、つまり目に見えざる絆で結ばれているのを見てとるのだ。(…)ちなみに、ナイジェリアの詩人G・オカラが、モラル・アレゴリといわれるその唯一の小説『声』Okoloで追求しているのも、決して生理的機能としての声ではなく、キリスト教の`calling'〔召命〕にも照応する、゛生のいみ゛、゛内なる光゛つまり有機的Forceである。》p174そういや『コーリング』にはファン・ルルフォの小説(確か『燃える平原』?)が出てきてたっけか…
1行文章を読むと、次の行では驚かされる…人は、文章を、小説を読む時、その読んでいる内容の調子に身体や頭を合わせていき、その合わせていく作業において知らず知らずのうちに、次に来る内容を想像しながら読んでいる(…あれ?ナボコフが、「人は読書することはできない。ただ、再読するだけだ」とか言ったのこういうことか?読んでないからわかんないが…)。その想像のレンジは広く、あらかたのもんが収まってしまう。そして小説も、その中に収まるように書かれていく。なぜなら、作者もまた読みながら書いているから、読んだ内容と形式に導かれながら、引っ張られながら書いているから、だろう。ただこの小説は、1行前と大きくかけ離れた、ずれた文章が次々あらわれる。内容と形式が混然一体となったものそれ自体が、前の行の内容と形式を裏切っているんだから、それを読んだ時は、驚かずにはいられないし、笑ってしまう(笑いの一種として、直前に言ったことややったことを裏切っていく行為がある。「一方その頃コーカサスでは…」)。まるで自分の書いたものを読んでいないかのよう…?(単数および複数の相手から)聞き書きをした文章のようても、複数の作家がいるようでもある。
神話的形式を用い(由来譚とでも言えるようなものをちりばめ)、整合性をなぎ倒し(内容においても形式においても文章においても)、こっちの物語的予測や期待をすかし(パワーバランスが狂っているのとか、どうしようもないことが起きてしまうのとか、物事の解決のあっけなさ(あっさり有利なことが起きてしまう…)とか…これらもある意味神話的特徴なんだろうけど)、これがすべて回想の形式で語られているのを読者に忘れさせながらそれに気付かせるような(はっとさせるような、感覚を激しく揺り動かすような)語り口をやったり(「その時は知りませんでした」とか、すべてわかっている立場からの語りを急に入れてきたり、「以上が…てんまつです」と話題としての一纏め感を出してきたり)、言語という道具を逆手にとった視覚表現(化け物の描写のむちゃくちゃさ、とか…)をしたりする。
読んでる最中(笑いながら)「意味わからん」「わけわからん」「これすげー」を連発してた。ほんと、何でもあり。