蓮實重彦, 黒沢清『東京から 現代アメリカ映画談義 イーストウッドスピルバーグタランティーノ』と野村亮馬ベントラーベントラー』1巻と久保ミツロウモテキ』4巻買ってそれぞれ読み終えた。『モテキ』ドラマ化かぁ…。なんというか、落とし前のレベルについて考えることができた。幸世は、他者の存在が、それが自分とは明らかに違い、…そして「明らかに違う」とか「こういうところが似ている」という俎上にあげることすら不可能な存在で、ありのままを受け入れ…「受け入れ」という言葉すら回避して、そこに「ある」ものとして、自分ではない空間を占め存在するものとして、見、聞き、話し、好きになり、生きる、ということに気づく、…まぁとりあえず。解釈不能、というか。そこからしか、何も始まらない。特に恋愛は・・・でもまぁ、一種の肯定的解釈の産物ではあるんだろうけど。それだけじゃだめだ、ということ。もちろん否定的でもだめだし。そういう意味で、基本的に自分の問題(と本人以外が言うのも「解釈」してしまっていることになるんだろうけど…)だったいつか、夏樹じゃなく、土井亜紀だった、ということか。じゃあ、林田は、ってことにどうしてもなる。物語として、林田の落とし前を語る必要はないんだけど、一体彼女の問題は、ってことになると、…。東京で、長崎で、静岡で、一人で、二人で、家族で、恋人同士で、仕事しながら、家事もやりながら、漫画描きながら、ひきこもりながら、なんとかやってけるでしょう、となっているし、実際なんとかやってけるのかもしれないけど、その上でなお残る「やってけなさ」を描いてたのがこの漫画だったんじゃないのか。その残るものとして、まずわかりやすかったのが、恋愛ってだけで。それは、「創作」だったり、「親との関係」だったり、「セックス」だったりするのだけど。
ベントラーベントラー』はやはりすこぶる面白かった、というより好みだった。ある種の東京案内になっていて、岡本太郎記念館に行きたくなる。宇宙人、ではなく、外星人のビジュアルが、グロさとかわいさのちょうどいいところに位置していて、その習性やら特徴が、いい意味でゆるい(なにせ友好的外星人のクタムは、自らの外見ですら何の法則性もなく変化させてしまう…それでボケすらする)。ずるずる彼らの存在を日常風景の中に認めてしまっている。しかしそこに、よく考えれば軽い悪意だったり、ぞっとするような現象が紛れ込んでいる。
アメリカ映画談議は、まぁあらかた「ユリイカ」で読んでた部分もある。あとがきで、黒沢さんが、同時代の監督、クリス・コロンバスだったりゴア・ヴァービンスキー、微妙に年下だったりするんだけど、彼らにできて(クリストファー・ノーラン「でさえ」できる)自分にはできない(できなかった)「アメリカ映画」という言い方をしていて、その通りだなぁ、と思った。というか、邦画に、「アメリカ映画」を見ることが、ほとんどないんじゃないか。蓮實重彦がまえがきでいうような、楽天的で、明日も同じことが続く、と思わせるような映画。別に暗い内容とか明るい内容とか関係なく、ああ、「アメリカ映画」だなぁと思うもの。そういうのが見たくて、「アメリカ映画」を見に行く。それにもかかわらず、見終わった後、なお、あれなんだったんだ、というしかない不穏さやわけのわからなさを抱えている映画を作っているのがこの表題の3人だったりするわけで。