J・J・エイブラムスSUPER 8/スーパーエイト』見た。

オチがどうとかこうとか、そういうことではなくて、動きとか、光とか、そういうものの、映像だからこそ内包されうる「もの」たちの魅力が、この映画の全編に満ち満ちている。だから、評価するしかないし、感動するしかない。
おそらく、主人公が父親に言いたかったのは、「なぜ自分を遠ざけるのか?」ということだったんじゃないだろうか。これから父と子の2人で生きていかなければならない、これまでとは違う、ということを強く主張するのに、夏休みにキャンプに行かせようとしたり、いざ、町に怪現象が次々と起こると、自分しかここを守る人がいない、といさんで飛び出していき、帰ってくる息子そっちのけで捜査会議をして冷たいピザを食べさせる。
我々は、そばに引き寄せたいと思うもの、や、守るべきもの、を遠ざけてしまったりする。それが人間だ、どうしようもない。
しかし逆に、遠ざけたいと願うものを、忌むべきもの、恐れるもの、を近づけてしまったり、してしまうこともある。それ、は、何か。「映像」である。さらに踏み込んでしまえば、「映画」である。どうしようもなく死から遠い、若々しい少年少女は、しかし、ゾンビ映画を撮影してしまうだろう。それがゆえに彼らは、最初の凄惨な事故の現場に遭遇してしまう。そして、本来ならば、発せられなかった、秘めたる思いの告白を、――愛すべき人の過ちの償いを、恋する胸の内を――、映像は、映画は、誘発する。

本来ならば、接近し、対話し、理解すればよかったはずの存在を、間違った形で距離を縮めてしまった(それもまた、忌避だ)ことによって、この「事件」は起こってしまった、と言える。その点では、空軍も、生物教師も、同じ間違いを犯している。
それだけか?映画が成すのは、不意で唐突な、時には遺恨も残す、出会いだけか?
決してそうではない。映画はまた、そこで、(映画的に)正しく、両者の関係を切り結ぶ。
だからこその、あの少年たちの決意に満ち溢れた、素晴らしいスタートを切る救出劇があり、あのラストがある。あの生物との、また亡き母親との、関係の結末がつく。
映画を見ること、撮影してしまうこと、目撃してしまうことの幸いと呪い。それは、かつてあったし、これからもある。

おお、びっくりするくらい、大げさな話になってしまった。

米澤穂信儚い羊たちの祝宴』買った。