キャメロン・クロウ幸せへのキセキ』見た。

当たり前のことから語るのが、この映画にはふさわしい。ので、「光」について。
最初に、舞台となる、動物園つきの家へ向かう道に生い茂る木々の間から、動物園のオープン当日、それまでの豪雨が続いていたが、当然のように雨は上がっていることを感じさせる、カーテンの隙間からテーブルの上へ、生前の妻の写真で彼女の顔を覆うように、回想の中ではしゃぎまわる家族の間に、光が、存在し、それは――本当に当たり前のように――幸福の象徴で、愛おしむように、映像にとらえられている。
幸福であること、幸せ(ヨンシーの音楽がその圧倒的な多幸感で映画を包んでいる。すばらしい)。それがそんなに重要なのか?そう、ディランは、父親に問いかける。父親はそれに、明確な答えを返すことが出来ないようだ。だが、結局妻を亡くした父親と母親を亡くした子供は当然同じ悲しみを共有していることに気付き和解するし、…悩みを抱えた子供の絵はグロテスクなものになるし、飼育員の女性は新しいボスに惹かれてしまうし、監査官は嫌な奴だけれど無事合格となるだろうし、…ご都合主義だとか、ベタだとか、表現することが出来るかもしれないが、そして、そういう物語を読み取ってしまうのが問題なのかもしれないが、それで何が悪い、と言いたい。
現実とは関係ない場所で、当たり前のことを用いて、映画を構成する。その細部を挙げていけばきりがない。晴れ渡る空を舞う赤い凧や、野原でグリズリーと向かい合うとか、そのすべてに光は寄り添うし、それは映画=映像なのだから当然だ。そして、それは、幸せに決まっている。それは少しloudかも知れないが。

そして『ワイルダーならどうする?―ビリー・ワイルダーキャメロン・クロウの対話』なんて本があるとは…読みてぇ。