沖田修一横道世之介』見た。

世之介の視線は、朝倉あきを、伊藤歩を、佐津川愛美を、(黒川芽以を、)(おそらくは江口のりこも、)「発見」する。でも、吉高由里子には、それをしない。最初に運転手に目が行く始末だ。
しかし、その行為は、彼が手にしたカメラによって遅れて為される。そして時を経て、吉高由里子だけが、今挙げた女性の中で、その瞬間を捉える事が出来る、彼の写真によって。
世之介の言葉は、はっきりとしているがゆえに、その言葉以上の意味を持たないがゆえに、相手に容易に達しない、ということがある(倉持との会話がそれの象徴だろう。あまりに、即、初体験の相手を当て、借金の申し出を受け容れてしまうため、倉持は戸惑ってしまう)。相手は言葉を言い淀み、聞き返す。しかし、吉高由里子だけは、はっきりと発話する。即答をよしとする世之介すらも引かせるほどに。病室で、強く名前は呼ばれ(若干飼い犬の名前のように響くが…)、メイドの涙すら誘う。
彼女の激しさすらある笑いが、破裂するような声は、強く印象に残る。特別な相手、の描写が、こういうものだというのは、素晴らしいことじゃないだろうか。
その人物特有の、と書くと大げさになってしまうが実際はそんな大それたことじゃなく、――世之介が自らのカメラ撮影を称する程度の――、ちょっとした所作、を映画で描きだすこと。世之介のアイメイクの褒め方、それを倉持からおちょくられ、泣きながら唯がこすり落とすこと、加藤が西瓜を切り、世之介がそれを汚く割って夜の公園で渡すこと、千春の母親の荷物の奪い合い、祥子の団扇でのあおぎ、…挙げていけばきりがなく、それだけで語る言葉は費やされ、しかしそれでもこの映画について何も語っていないことになってしまうような、無数の仕草。
そんなものに溢れている、ということだけで、この作品を愛したい。多少の(自分にだけ、もしくは一部の人々に響くだけの)ずるさ、つまりノスタルジー、は、横に置いておくとして。
そして、その感触は、時を超える。倉持と唯の子供の名に、「世」の字が入る(現在時制において起こる彼らの子供の問題に、世之介が通奏低音のように鳴り響くからこそ、夜の食卓での唐突な想起がある)。加藤の恋人は、その少し特殊な名前に聞きおぼえがあるだろうし、千春は彼の「テンションが下がる」ニュースを読みことになってしまう(口にしづらいのは、時刻じゃないだろう)。そして祥子にだけはすこし皆とは違う特別さを持ってやってくる。このよみがえり方の絶妙さ。
この原作小説が書かれた時代か、あの「事件」が起こったのは。吉田修一は、あの、電車に飛び込んだ男性は、いったいどんな人間だったんだろうか、と夢想し、このキャラクターが生まれたんじゃないか。
この男性に限らず、ある人間の死、が、その人物を描くことがある。悲しいけれど、その出来事は、ある物語を語ってしまう。でもそれが思わず笑ってしまうようなものであれば、救われるのか。誰かが…。
この映画見たダメージで『最高の離婚」見れそうもないっすわ/腰の痛みがひどくて、ロキソニンを初めて飲んでみた。効いたような気もするし、そうでない気もする。でも痛みが弱まってるから効いたのか/