ソフィア・コッポラ『ブリングリング』見た。

例えば、結婚式、葬儀、裁判、そして、犯罪。ジャンル物でない映画で、描かれる重要なファクター。
今作の、裁判シーンのあっけなさ、(事実であるにせよ、というよりも、こういう事実だったからこそこの題材を取り上げたんじゃなかろうか…アメリカにはセコムとかアルソック無いんですかっていう)窃盗シーンの簡素さ。
前者でいえば、その内容よりも「出入り」が中心であり、後者ならば肝になる侵入・逃亡の経過よりも同じことの反復である「Shopping」に重きを置いている。

中身ではなく外見、にこだわっている。見た目、どう見られているか(フェイスブックにアップされ続ける「自分たち」の写真、「その方がクラッシーだ」「秘書の格好をした娼婦みたい」…何度も行われるスタイリング、「盗品」を身に付けた自分をうっとりと鏡で見るレベッカの美しさ、クラブでただ自撮りしているだけでげらげら笑っているというぞっとする場面)、を考えるのが楽しいし、幸せである。見ているか、ではなくて。彼らが見るのはセレブだ。そして終盤にその対象となるカメラ。最後に仲間同士、見あうこと、視線を向けあうこともしなくなる(レベッカとマークのように)のは、「当たり前」のことである。

「窃盗」中は、ブランドの名前をひたすら連呼して興奮しているだけ(「I Love It!!」)。ニッキーと彼女の母親が発するのは、「ザ・シークレット」「引き寄せの法則」「スピリチュアルな人間」「魂の年齢」「学びの場」といった手の単語。そしてエンドロールのラストには、協力したブランド名の羅列、そして何より「Thanks」欄(しかも「Dad and Mom」って!ソフィア・コッポラはいつもこんなことやってるんだっけ??)。内実の伴わない言葉しかない。ま、そもそも…って話ではあるが。

実在のモデルが「そう」だったかは知らないけれどともかく、マークの描き方(ベッドの下に隠しているショッキングピンクのハイヒール、「おばさんみたい」と称される言動)に現れているように、恋愛も、セックスも、丹念に排除される。彼女(と彼)たちが、「セクシー」な格好にこだわったり、「bitch」と呼び合うことに、それらの身ぶりの元々の意味は含まれていない。

流れる、カニエも、フランク・オーシャン(「Super Rich Kids」っていうの、まさにって感じで、べたべたで良いな)もリック・ロスもM.I.A.も、ここでは頭悪そうなからからに乾いた空っぽの音楽(リック・ロスはもともとそうか…?失礼)。

これと、『ウォールフラワー』、という意図的すぎる出演作選び(明らかに同じものを違う視点で描いている2作品…)をするエマ・ワトソンの「選球眼」は何なのか(本人なのか、だれなのか)。感情を(太文字で)表現する、上下する眉と瞳は、この役のためなのか、だとしたらぴったり。

あと、日中や室内、の画が、白く飛んでる、白茶けているのは何なのか。ああいう色の変え方、おしゃれというか、元々の見え方を「改悪」したような処理は初めて見たかもしれない。撮り方失敗したみたいな。スロー多用しているのも、まぁ、「効果」あったとは言えるな。なんつーか、どうでもよさ、みたいなもの…。

あとさー、何で金が手に入って馬鹿買いするのがKitsonなの?あれはあるあるなのか??


あーー都知事選の事考えてたら暗くなってくる…。