保坂和志『世界を肯定する哲学』読んでる。
《「充実感」はただ「当面なすべき課題が与えられてそれに熱中する」という〈プロセス〉それ自体の中にあって、〈プロセス〉さえあれば〈結果〉抜きに「充実感」を感じることができている。》(p154)
《(…)スポーツやゲームの起源もまた夢なのだと思う。(夢の拘束感=ルール、を踏まえて)神話は夢の解消や昇華ではなくて、もっとずっと生な、夢の反復だ。スポーツもまた、覚醒時になされる夢の反復なのだ。》(p156)
《ここで肝心なことは、「生体としてのまとまり」を主導しているものが、(…)生体に組み込まれた横並びの機能の便宜的な特化であって、コントロール・センターのようなものが独立して存在しているのではないということだ。(…)「意識」という指揮者は、オーケストラの演奏が順調につづけられているところにやってきただけなのだ。》(p165-166)
《夢の中で「私」はモンタージュ以前の世界に投げ出される。夢の中で大の大人が何歳になっても真剣になるのは、モンタージュが完成されていない、断片化された世界の中で、「私のようなもの」が必死になって世界の統一を見出そうとする意志(生きようとする意志)の作用によるのではないだろうか。》(p166)
こうして読んでいくと、保坂さんが柴山雅俊『解離性障害』をすすめていたことが腑に落ちる。


さすがに、いろいろ忙しいとはいえ、トランスフォーマー見れなかったの、くるものあるな。いや、実際見れたはずなんだけど。