最近見た映画。


リチャード・リンクレイター6才のボクが、大人になるまで。

コンセプトも、実際に撮影してしまったことも、すさまじく異常な作品だった。
映画、というものが崩壊していく感じというか…そもそも、映画のもってる枠組み自体が実は緩いものでしかなかったということに気づかされるというか…。
イーサン・ホークがひたすら、息子に「その話の要点はなんだよ?」と訊かれて、「要点なんてない。ただ思ったまま話しているだけ」と答えるシーンがある。
これは、ジュリー・デルピーと、長い時間をかけてひたすら「話し続けている」イーサンだからこそ言えること、なんだけど、この言葉が、まんま映画の「正体」のことでもあり、人が生きていくこと(わかりやすくいえば「人生」なんだけど)、時間、この世界、のことを表している。
で、この作品は、子供が歌い踊るブリトニー、「ブッシュ以外なら誰でもいい」、イラクに従軍した兵士、オバマ応援の看板、といった時代の象徴と、アルコール中毒やらドラッグやら車やらといった要素、を登場させ、つまりはアメリカそのものを描こうとしている。
ヴォネガットの出し方も良い。


三池崇史神さまの言うとおり

一言でいうならば、japanese bad taste movieという感じ。
日本を悪意と偏見を持って過剰につめこんだ映画。のっぺりと素晴しく不気味なCGで描かれる悪しき民芸品たち、過剰にデフォルメされたカッコつきの「ヒロイン」演出、アイドル・お笑い・「ドラえもん」と「ジバニャン」…といった声優のセレクト、めちゃめちゃな神木きゅんが現す中二病、ゾンビをぶっ殺しまくるビデオゲーム、…。
この国を激しい悪意で描いたこの作品こそcool japanなんじゃないか。わからんけど。そして相変わらず、優希美青の屋上のシーンのような、惹きつける暗さのある画も有る。上空からの、密集する人々と無数の赤いサイレン。そして、渋谷に集まる、「あの」人々と彼らを規制する警察、のノンフィクションの映像をまぎれこませている。
染谷将太を出しつつ(そして、あの扱いをしつつ)、ほぼ同時期に公開されるもう一つの東宝作品はここまでできるかと挑発している(やっぱ三池さんだったんじゃないかな…)。死に方百景の趣きあり、断面どころの騒ぎじゃないところに余裕と凄み。
悪趣味の表象をまといまくった大森南朋(オタク、アニメ、2ch、まさかの暴走族!)とリリーさんの再登場を期待し続編を待ちたい。しかしどこまで原作通りなんだ?
三池さんの方が年上だけど、ジェームズ・マンゴールドのようにジャンルに意識的に横断し撮っていってほしい。


クリストファー・ノーランインターステラー

すごいよ…もうノーランとか10年くらい休んだほうがいいんじゃないか…エンターテインメントの一つの極北に到達している。冒頭の、ドローン機を追ってジープが突っ込んでいくシーン、エモーショナル過ぎだ。今までとは違う、という宣言を感じた。
終盤、劇中のあるシーンが再び登場するのだけど、その時、驚くべきことに、画角が変わる。
現在時の人間にとっての過去が、画角変更されてしまうなら、それはすなわち過去の映像=映画を見ることだ。
この、というより、「すべての」世界を映画として、そこに含まれる不可能性(死、時間)を技術や信念や愛で乗り越えることに挑戦する「映画」。
作中で仕組まれる嘘たちを、たった一つの約束を守るという行為が突破していく、その過程を、映像的なトリックや脚本上のハッタリで、フィクションとして語るという…。
なんというか、確かにこれは、作られた架空の物語なんだけど、見ていく中で、本当に共に旅をしたような、途方も無いところへ連れてかれたような気がしてしまう。長尺の意味がある。
そして、ここまでのコストと時間と頭脳を費やした作品が、ただ「映画最高!」と言いたいがために作られたんじゃないかという疑惑が生まれ、でもそれは決して矮小化じゃない、という意味を込めて、見た人間も映画最高といわなければいけないのかなーと。そして、映画賛歌がそのまま、人間賛歌になってる、というピュアさ(無論、それに対しての賛否は当然あるけど)。その賛歌を、荒唐無稽でぶっとんだ仕組み(今作だと、視覚化、二次元化できないはずのものを無理やり落とし込む大胆さ)で語るのは、確かに舞城を思わせる。
今回、IMAXで見たのだけれど、音響がはんぱない。ハンス・ジマーの地の底から静かに伝わってくるような曲と共に鼓膜が、身体が無理やり震わされてしまうような環境音。それがロケットの発射と、少女の泣き叫ぶ声と重なった時のやばさ。
積もる砂は時間なんだろうな…と思ったり、TARSとかCASEのフィギュア欲しいな、と思ったりした。
にしても、わかるとかわからんとか、ほんと、どうでもいいですよ、この作品は。