ティム・バートン『ダンボ』

最初に今作についての情報を知った時、ティム・バートンが実写化すべきディズニーアニメは、自分としては、バートン的モチーフに満ち満ちてるから明らかにピノキオだったんだけど、ただ、あえてダンボにしてるというところに期待してたし、あらためて考えればダンボもまたティム・バートン的に解釈可能ではあるんだと思った(思うことにした、というか)。

で、実際に見て、確かに、何かこう欠けてるというか、力が抜けてしまってる部分はあったけど、それでもティム・バートンの映画として成り立ってはいたとは思う。…こうして書くとだいぶ留保付きという感が否めないな…。

劇中で描かれる、自らに好奇の目を向ける人々の姿をとらえたダンボの主観の視点、そしてダンボの瞳に人の姿が映るという描写において、彼が一貫して誰かに見られる対象であること(「見世物」であること)が強調される。

しかし、彼が一番初めにこの世界に現れた瞬間の姿はどうだろうか。

 

経営が傾いたサーカスの目玉となる存在の「代わり」に、期待を裏切る形で現れることになってしまうダンボは、その誕生の瞬間を描かれず、すでに生まれていた(いつの間にか生まれてしまっていた)姿から、この映画に登場する。そして、そうであるがゆえに(誰からも出自を証明されないがゆえに)、「偽物」だと責められることになる(ダニー・デヴィート演じる団長がダンボを最初に見た時、こんな象がいるわけがない!と過剰に拒否反応を示すシーンが、原作にあったのか、それとも今回付け加えたのか?は気になるところではあるが)。

 

ここで提示されている、人目を惹き欺くフェイク、何かの偽物、まがい物であること、また、何かの代替物であること、といったモチーフが、全編に登場している。

 

またさらに、サーカスにおいて、人知を超えた怪力を持つことや、人魚であること、それらがフィクションであるように、不可能が可能になることがあるとしても、それは見せかけ(作り物、虚構、アミューズメント)のはずなのだが、しかし、そうであるにも関わらず、今作においては、(ある種変則的ではあるにせよ)現実(と解釈できるような状況)となってしまう。

 

つまり、「偽物」が「本物」になる、ということだ。

 

そして、その構成が繰り返される中で、ダンボは、自身の母親を、誰も見たことがない彼の誕生を唯一見ていた、彼を(カッコつきの、変則的な)「本物」だと証明する存在として、追い求めることとなるだろう。

 

ただそもそも、映画自体が、そもそもフェイクで、何かの代わりでしかなく、しかもそれを本物らしく、現実であるかのように見せるメディアなので、偽物や代替物を扱うことには必然性があるに決まっている、とも言える。