三宅唱『呪怨:呪いの家』

女性はなぜホラーにおいて特権的に扱われるのか。女性は子供を産む、つまり、恐怖を、凶々しさを、呪いを次世代に継承することができるから。呪いの「主体」にとって都合の良い存在だから。逆に男は産めないので死んでもよく、彼らは死によって解放される。

つまり、ホラーにおいて女性は(呪いを)産む機械として扱われている。連鎖させるための装置。
そのために生きながらえさせられると同時に、呪いが継承されたら、たとえ本人と関わりない別の場所で別の人間に継承されることが確定された時点で、「廃棄」されることになる。
性的な役割が完全に固定されているので、セクシズムであり、反フェミニズムであることは間違いない。歪んだ生物学に支配されるホラーの登場人物たちは、常に肉体的に損なわれる。精神的に傷つけられても最後には肉体的に死を遂げる。
……ただ、パッと思いつく不可解な例外として、『リング』の倉橋雅美(佐藤仁美)と『回路』、というのがあるのだが、特に後者に関しては、もうわけがわからないのだった(諦め)。
今作は、ともかく長回ししないなーという印象。印象的なのはテレビ局の廊下と、交霊実験の時くらいか。
黒島結菜さんが楽屋である衝撃的な知らせを電話受ける時の、ワンカットで表情が変わり、見たことのない顔になっていくのはよかった。左右の目が異なる割合で肥大化して、位置すらも変わっていく、左右の目が離れていくようにすら見えた。
三宅唱監督作品は『Playback』と『THE COCKPIT』しか見ていません。その後の作品も見てない自分の評価は、まぁ推して知るべしという感じ。
ところで高橋洋さんは蛇囚人さんの怪談を読んだことあるのかな。今作のあるエピソードに、昔からの友達が突然「今までずっと嫌いだった」と告げてくるやつを思い出した(https://togetter.com/li/532005?page=6)。どっちが先かはわかりませんが(蛇囚人さんの怪談自体が高橋洋的とも言えるし)。
「連鎖する呪い」の後半の展開、ある男の彷徨は最早ボケてきてるとしか思えない。んなわけあるかい!(地理的なハッタリの利かせ方よ!)って感じで、笑かそうとしてると思われた。
住居としての家が、長い時間ずっと存在し続けるということは、同じことを繰り返す場所となるということだ。
家である以上、そこに人間が住む以上、同じ営為が繰り返されることは自明。
今作、特に後半は、人間の様々な行為や、起こりうる物理的な現象が、偶然かつ必然に、同じことが繰り返されてしまい、それがトリガーとなって、異なる時空間同士が結びつくという解釈がなされている。
それはつまり、空間が記憶しているということ、記憶の主体が空間であるということなのではないか(まぁ今作は幽霊物なので、空間すなわち幽霊となってしまうんだけど)、という点において保坂和志カンバセイション・ピース』を思い出したりもした。

Best Albums of 2019

こういうベストを一人で作るときは、常に個人的なものと非個人的なもののせめぎあいのなかで選ばざるをえない。

つまり完全に個人的であることはありえない、はずなんだけど今回はかなりそっちよりになった。自分にとっての聴きやすさ、ある種肯定的なもの。

たががはずれた、と言えるのかもしれない。

 

12. Tempalay『21世紀より愛をこめて』

音が鳴るタイミングも音色も違和感があり「既聴感」のないシンセとギターとドラムによって発せられる異なるリズムが入り乱れ、うにょうにょとした奇妙さと爛熟した美しさが両立する、いやおそらくこの2つは同じものなのだ。そしてこの歌詞こそが日本語の美しさだろと……。

 

11. Wiki『OOFIE』

毎年選んでいる変なラップミュージック枠(そんなものはない)。

これは自分の問題だけど、近年ずっと、一聴してオッこれは「変」です、とならないと聴きとおす気がなくなってしまう。変な音が鳴り、変なフロウがあって、フリーキーであり逸脱しているようなラップミュージックでなければヒップホップじゃないね。

しかし何回「変」というんだ。

 

10. John Legend『A Legendary Christmas』

キャリアのあるアーティストが誰かしら、必ず毎年クリスマスアルバムを出すというスタンダードさこそ、豊かである、と言いたい。

ファンキーでありメロウなオケもアレンジも歌もすべてがリッチ(ラファエル・サディークプロデュース!)。

 

9. Rex Orange County『Pony』

リッチであること、豊潤であることの、対極としての、貧弱であることのチープさではない。弱弱しくも、我々に優しく親しげに寄り添うものとしてのチープさ。"I'm comin' in Bruce Wayne"……。

 

8. Beyoncé『HOMECOMING: THE LIVE ALBUM』

ひたすらエンパワーメントする、文字通り「鼓舞」する音楽。ビヨンセのキャリアを総ざらえする(かつ未来へと繋がる)超ボリュームのベスト盤ともいえる。

そしてThe Carters仕事として最良のものと言いたい「Deja Vu」の掛け合い(「掛け合い」って……しかし「掛け合い」としか言いようがない円熟味)、何回聴いても飽きず、最高。このド定番っぷりはもはやサブちゃんの「まつり」のようだ。そして、検索すると携帯で撮った映像出てくるんだけど、観客が全編シンガロングしており、それもまた最高。

 

7. Common『Let Love』

音が一つ一つ粒だっているオーガニックなサウンドは聴いていてひたすらに気持ちいいというやつ。

成熟しておりかつフレッシュである(というのが両立するのがヒップホップなわけだけど)。そしてポジティヴであれとリスナーを勇気づける力強さがある。

 

6. 杏沙子『フェルマータ

こういう作品が生まれる限り日本のポップミュージックは信じられる。アレンジの細部にわたって徹頭徹尾考え抜かれている、ちゃんとしてる(パーカッションの楽しさ!)。

 

5. 土岐麻子『PASSION BLUE』

クールなトラックとソリッドでエッジのきいたリリックによる都市の音楽として、今作は一つの頂点に達しているように思える。ここまでくるのにコンスタントに良作を出し続けている土岐さん(トオミヨウさんも)はすごい。そしてここから先にさらに高みへ登っていくことができるのか、できるのならすごすぎる。

 

https://twitter.com/niwashigoto/status/1194226602160226304?s=20

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https://twitter.com/niwashigoto/status/1194226602160226304?s=204. Chance the Rapper『The Big Day』

ともかく祝祭、祝福のアルバム。幸せボースティングするチャンスを止める権利などだれも持っていやしない。どんどんやってくれ。今これはチャンスにしかできない、というかこういうヒップホップは今チャンスしかやってないなーと感じる。オンリーワン。"We can be (Eternal), eternal (Forever and ever)"って感じでこれからもいきたい。

 

3. Tyler, The Creator『IGOR』

ただひたすらに切ない。今までの悪態ではなくて哀切の響き。"For real, for real this time"と何度口ずさんだろうか。ジャンクでラフ、ではなくてきれいに整えられたアルバム。 https://twitter.com/niwashigoto/status/1136045666038194176?s=20

 

2. KIRINJI『cherish』

なんで毎回毎回こうもかっこよくてアクチュアルなんだ。そして「踊れすぎる」。全曲グルーヴィーでハネまくってる。

 

1. Ofifcial髭男dism『Traveler』

ともかく2019年一番繰り返し聴いたアルバム。「Amazing」「Rowan」「最後の恋煩い」とこちらの息の根を止めにかかる曲が3つあるのでその時点で完全に好き。

誤解を恐れず言い切ってしまえば、なにも新しく生産しない、ただの良い音楽として屹立するものとしてのポップミュージックである、と。こういう音楽はかつてあったし、今もある。そしてこれからもまた現れてほしい。

 

切実さ

自分がかつて過去に好きになったものが自分を支えるのだとして、そこから自分が変化していって今があるのだとして、でもそのある時期の自分を肯定したい、ということではない。ただすぐに否定できないのも確かだ。それはやはり蓄積された時間のせいだろう。

単純な言説でまとめられない、複雑な回路があって、単純に、直感で、すぐに言葉にできる程度のところまではそのようにできるけど、その一線を越えると、途端に難しくなり、黙ってしまう。その一線というのが、切実さなんだと思う。

それぞれの人間の、それぞれの事項に対する向き合い方があるから、全員にあてはまる感覚ではなくて、あくまで自分にとって、だけど。

逆に言えば自分には即反応しなくてもよい余裕があるからなのかもしれない。立ち止まる、言いよどむことができる余裕。切羽詰まっていたら即反応してしまうだろう。ただ、即反応できる時と別種の余裕のなさ、というのもあるんじゃないだろうか。どちらにしても余裕なんてない、と言い切ってしまいたい。

自分が興味がない、自分にとって切実でない、自身のある種の本質的なものと切り離せない関係性を切り結んでいない、ものに対する冷淡さを開陳する前に、少しだけでいいから待機して、想像してほしい、と望むこと自体が、誰かを損なってしまうことになるのだろうか。であれば、ますます黙るしかない。

ただ、容易に他者の行動の真意を類推して行動を制しようとするのはよくない。それをお互いがやめれればよい。

自分がたまたま(本当に、ただの偶然で)制されないだけなはずだ。自分の切実さが、たまたま、他者にとって別種の切実さと関わっていないだけで。切実さが独立している、というように思われるだけで。

でも絶対に大丈夫と言い切れないんだから、だからこそ、その切実さに触れる時、言及するときに、優しさとかではない、なにか、多分繊細さとか、丁寧さとか、そういうもの、が必要なんだと思う。でもそのなにかが容易にただの優しさを所望する気持ちになってしまう、し、言及する側もそうとらえてしまう。そこから擁護云々までの距離は近い。むずかしい。

でも、だれにとっても「どうでもいい」ことなんてない。雑に物事をとらえること(いわば単純化)と、それを面白がることは隣り合っている。

あと、結果的にそうなってもかまわない、という、経緯を無視した、結果だけを見る、論理はやっぱりなにかがおかしい。適者生存みたいな考え方。なぜなら経緯の中にこそ時間があり、そこに人間がいるから。

自分もどこかでそういうところがある。つまり変化できないものはいずれ消えていくんじゃないか、それは止めようがないんじゃないか、という。ただそれを、少なくとも自分が生きている間は、自分がそこに力を加えて推し進めようという気はない。ただ消え去ることへの無常観があるだけ、というのもある種の逃げかもしれないが、そこまでしか言えない、究極的には。

豊かさについて

  • ここ最近ずっと、自分の意志とは関わりなく見せられているような感覚がある、スマホのカメラで撮った映像は、とりあえず、リッチではないもの、のカテゴリーとなるだろうけど、それで満足している現状は、これが数ある選択肢の中の一つ、数あるバリエーションの中の一つ、であるからいいんじゃないかと思っていて、それしかない、それだけになってしまうこと、を今後も引き続き受け入れることができるのかはよくわからない。
  • 「さんをつけろよデコ助野郎!」じゃないが、誰かが、「お豆腐屋さん」「お風呂屋さん」と呼べる女性が好きと言っていたことを思い出すが、自分はそこまでではないし、むしろそういう趣向を女性に押し付けるのは薄気味悪いと思う。ただ、お店には「さん」をつけたほうがなんとなく丁寧でいい気がしていて、が、もちろん自分だけの話としてだけど今の年齢で「さん」をつけるのになんとなく違和感があるので、つけないで呼ぶことにする(とここまでが長い前提)、近所のラーメン屋で、友人同士らしき2人の女性が食べに来ており、隣同士で座ってずっと会話しているのだけど、そういうことがいかに豊かであるかが今、逆説的に分かるのと同時に、端的に言って、もうどうでもよくなってんのか?という危なっかしさも感じる自分がいて、後者に関してはなんとなくインディーズ警察っぽいのでよくないなと思う、が、個人的に、外に出ること、外で活動することに対して、かなり追い詰められているノイローゼに近い感覚がずっとあり、仕方がないので許していただきたい。
  • 昨日ミスチルのライブ映像を見て、スイッチングされる無数の画の中に、ソフトフォーカス的な、桜井さんにだけピンがあってて背景がぼやけているような画があり、そんなある種遊びの映像を撮るカメラを、こんな大規模なライブの収録において用意していること、なんて余裕があるんだと思い舌を巻いた。
  • アルバイトとかパートとか契約社員とか派遣社員とか、本当にあらゆる「安定」が永続的に継続するということを前提としていた存在なんだなと、あらためてではあるけど、今強く思っている。で、そんなわけがなかった今の状況で冷静になって考えてみると、こういう構造ってもともと破綻していた、ないしこれから破綻するしかないんじゃないか。ただ恐ろしいことに、こういう破綻をあらかじめわかってて、そこで損なわれるものがあることもあらかじめ気づいていて、この構造を導入した節もある。で、そもそも非正規雇用ってなんなんだ、というか、そもそも雇用されること自体がやばいんじゃないかという気がしてくる。あとは会社というのも意味わからなくなってきて、結局ちゃんと仕事をするには職人になるしかないんじゃないかという、かなりあいまいでぼんやりした結論めいたものにたどり着くしかなかった。

歌うことと踊ること(歌わないことと踊らないこと)

うろ覚えなので自分で捏造したものであったら申し訳ないのだけれど、ジェームズ・ディーンが、何かのショーだかテレビ番組だかに出演した時、自分は歌が下手だからその代わりに、と言って、歌に合わせてリップシンクしながらダンスをした、というエピソードを思い出した。たとえ歌えなくても、踊れなくても、音楽によりそって、できることをする。

音楽に対して、歌わず、踊らず、なにもしないこと(聴きもしない!)は、音楽を、歌と踊りを相対化させる。つまり「ネタ」化するということだ(だから私は、ただ喋っている大泉洋や真顔のバナナマンが、かなり早い段階で登場してしまったことには危うさがあると思ってる)。さらにそれは逆張りってことでもある。

逆張りは、まず寄る辺、寄る大木がないとできない。太田光が、ビートたけしは、笑いで前提となるような正論を全てひっくり返してしまった(赤信号になるとみんなが止まっていたからこそ、「みんなで渡ればこわくない」が笑いになった)、なので自分たちは何もない焼け野原でやっていくしかないと吐露していた。

だからそういう逆張りの人たちこそ、自己責任(論)を語れないはずだ。真っ当さ、一般論、常識、正論と呼ばれるものがなければ自分たちは存在しえなかったんだから。

多分たけしは、一旦寄る辺的なものが何もなくなったところから再構築されたという歴史を体感してる。それが、結局甘える存在が最初からあった(ダウンタウンのネタを全然笑わなかった寄席の老人たち!)松本人志と違うところだと思う。

でも、舞城王太郎が『阿修羅ガール』で、子供の死体で阿修羅像を作ろうとした殺人鬼に対して《(…)作意のそもそものところはいいものだったし、いい事をしようとしたということは、(…)いいところがあったということだし、いいところがあるということは、結局のところ、いい人間だったのだ。》と書いたように、例えば『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』を、もちろん批判的な観点も常に交えつつ、作品の良さを、使える道具、として参照すべきだろう。

歌わない、踊らないことは、歌い、踊る人がいるからこそできる。本当に歌うことも踊ることもできない人のため、少しでも歌えるなら、踊れるなら、下手でもいいから歌い、踊ってほしい。

 

バグってる

ドラッグストアを数店巡って空っぽの棚を見たら「バグってんな」という感想が浮かんだ。スーファミゲームボーイのソフトで起こるような現象。一度カセットを抜いて差し込み口に息を吹きかけないといけない。

9年前にコンビニのカップ麺が全て売り切れてがらんどうになった棚を見た時にも近い感覚があった。より強度が増しているのは、当事者云々の問題だろうか。だとしたら恥ずかしいし、以前そこまででもなかったことも申し訳なく思う。

スーパーでカセットボンベが売り切れてたのを見て思わず、いや関係ねぇだろ!と思ってしまったけどしかし、「関係」から絶たれた事象などこの世にはなく…まぁ単純に鍋の季節の需要によってなのかもしれないが。とりあえず、ドンキホーテでR-1が安く買えることを知れたのでよかった。今度からここで買おう。

佐々木のあっちゃんの小説が載ってる新潮を探しに書店に行ったけどなく(探し物がないことばかりだ)、すばるの朝吹さんと岡田利規さんの対談のページを開いたら冒頭が幽霊を信じるか?的な話題だった。自分の考えは、幽霊は信じるとか信じないとかそういう俎上にあげるものじゃない、ということだ。

家に帰って『ハウス・ジャック・ビルト』見ます。

ヴァージニア・ウルフ『幕間』

ウルフは読者を「ぶっ飛ばす」。いや「すっとばす」と言ってもいいかもしれない。そう感じる時いつも頭には東方仗助の姿が思い浮かぶ。

読者の中にウルフは、風景を、思想を、イメージを小説によって蓄積させる。そして、その積み重なりが爆発する境目がやってくる。整理されない言葉、描写が入り乱れる。渦の中に巻き込まれる。その時に前述のぶっ飛ばされるような感覚がある。ミレニアム・ファルコンがハイパースペースに突入する時のようだ。そうしてある場所にたどり着く。そこでは明らかに人間の、生命の美しさが(傷つきながら、傷つけられながらも)肯定されている。

ウルフはだから、読者を信頼している。ある統一した精神を持ち、記憶を維持し、文章を追い続けることができる読者の存在を、自分の小説を読むのはそのような存在であるということを信じている。読者もまたウルフの自分に対する信頼を感じる。ウルフの小説は作者と読者の紐帯として作られているようだ。

美しさや信頼、の一方で、実際の事件や詩歌・物語を用いて、ぞっとするようなある種の残酷さを潜ませている。我々は、統一性を信じる一方で、そうした攻撃性によって千々に乱れもする。その行き先には暗澹たる戦争が待ち構えている。それもなお……ということではあるわけだけど。