切実さ

自分がかつて過去に好きになったものが自分を支えるのだとして、そこから自分が変化していって今があるのだとして、でもそのある時期の自分を肯定したい、ということではない。ただすぐに否定できないのも確かだ。それはやはり蓄積された時間のせいだろう。

単純な言説でまとめられない、複雑な回路があって、単純に、直感で、すぐに言葉にできる程度のところまではそのようにできるけど、その一線を越えると、途端に難しくなり、黙ってしまう。その一線というのが、切実さなんだと思う。

それぞれの人間の、それぞれの事項に対する向き合い方があるから、全員にあてはまる感覚ではなくて、あくまで自分にとって、だけど。

逆に言えば自分には即反応しなくてもよい余裕があるからなのかもしれない。立ち止まる、言いよどむことができる余裕。切羽詰まっていたら即反応してしまうだろう。ただ、即反応できる時と別種の余裕のなさ、というのもあるんじゃないだろうか。どちらにしても余裕なんてない、と言い切ってしまいたい。

自分が興味がない、自分にとって切実でない、自身のある種の本質的なものと切り離せない関係性を切り結んでいない、ものに対する冷淡さを開陳する前に、少しだけでいいから待機して、想像してほしい、と望むこと自体が、誰かを損なってしまうことになるのだろうか。であれば、ますます黙るしかない。

ただ、容易に他者の行動の真意を類推して行動を制しようとするのはよくない。それをお互いがやめれればよい。

自分がたまたま(本当に、ただの偶然で)制されないだけなはずだ。自分の切実さが、たまたま、他者にとって別種の切実さと関わっていないだけで。切実さが独立している、というように思われるだけで。

でも絶対に大丈夫と言い切れないんだから、だからこそ、その切実さに触れる時、言及するときに、優しさとかではない、なにか、多分繊細さとか、丁寧さとか、そういうもの、が必要なんだと思う。でもそのなにかが容易にただの優しさを所望する気持ちになってしまう、し、言及する側もそうとらえてしまう。そこから擁護云々までの距離は近い。むずかしい。

でも、だれにとっても「どうでもいい」ことなんてない。雑に物事をとらえること(いわば単純化)と、それを面白がることは隣り合っている。

あと、結果的にそうなってもかまわない、という、経緯を無視した、結果だけを見る、論理はやっぱりなにかがおかしい。適者生存みたいな考え方。なぜなら経緯の中にこそ時間があり、そこに人間がいるから。

自分もどこかでそういうところがある。つまり変化できないものはいずれ消えていくんじゃないか、それは止めようがないんじゃないか、という。ただそれを、少なくとも自分が生きている間は、自分がそこに力を加えて推し進めようという気はない。ただ消え去ることへの無常観があるだけ、というのもある種の逃げかもしれないが、そこまでしか言えない、究極的には。