森茉莉『私の美男子論』を読んだ。対象となっている人物のしぐさ・素振りが印象的に描かれている…と単純に言ってしまえなくて、その人の着ている服や部屋や持ち物との取り合わせ、食べ物、眼、語り方、持ち物、などの細部がとても丁寧に、というような真面目さではなく、まぁ丁寧と言っても差し支えはないだろうけどなんというか、細部が細部として色濃く、なまめかしく描かれている。雑な、全体をとらえただけの印象論とかはなくて、全体の印象を一言で言う部分もあるんだけどでもそれは、そういった細部によって支えられている。細部がどう見えるか、見え方から、遠くにあるイメージへとつなげる。そうした本人とイメージとの描写の往還というのか、そういうものから、ふと、気付いたかのように、本人に似合うであろう新たなイメージが出てくる。そういう描き方に、「男の色気」だの「男っぽい色っぽさ」(しかし男はこういう言葉を使うのが好きだなー)といった、まるでうまいこと言ったかのような全体をうまくとらえたかのような言い方や言葉は似合わない。いやもしかしたら使っているのかもしれないけれど、使うのなら、なまめかしくて生々しくて立体的ででも大袈裟ではない人間のある部分というか細部というか、そういうものと共になければつまらないと思う。《私は廊下を走るのも、庭にいるのにも飽きると、硝子戸がずっとはまった廊下に立ち、硝子戸のなかから、いつまでも飽きないで、庭木や、空や、花を見ていました。そのとき、硝子に惹きつけられて、だんだん大きくなるにつれて硝子のなかにからだごと入りたいようになって、それが私が初めて感じたエロティシズムです。》(p158)とさらっと(「初めて感じたエロティシズム」とかはまぁいいとして)描写してしまえる人と対談するのはむずかしい、と言ってしまってもいいのかもしれないんだけど、ここでは、そんなのを少し隠し気味にしているにも関わらず、相手に(萩原葉子はとりあえずのぞくとしても)なんだか「…」と思ってしまった。

いましろたかし『グチ文学 気に病む』も読んだ。
《相変わらず髪は抜けるし歯は痛いし目はかすむし大変なのだがしょーがない。/本気でしょーがないとは思えない。体が悪くなると将来に対して悲観的になりすぎて怖くてたまらなくなる。それが毎日続くと、うんざりしてきてイライラするので、しょーがないのだと口にするが本気では思えない。(…)体の具合が悪かった時は這って接客したそうである。ふんふん…と適当に聞いていたのだが急にババアが真顔になってこう言った。/「好きで宿業やってるわけじゃありません!」/昔は賑やかだった田舎もさびれて宿はここ1軒だけになっている。元は農家だったが、流れで、遍路宿を始めて、やめられなくなったというのが本当のところだとババアは言った。/一生懸命に接客はするが、やる気があるわけではない…とババアは俺に伝えた…と解釈した。よくわからないが、ただ善良に日々をおくっているのではない、誤解されたくないと思ったのではないだろうか。なんでか知りませんが。/あ、そういうもんかと俺はホッとした。やる気なくてもいいのだ別に、と思った。/人の良さそうな年寄りに、ただしょーがないからやってるのだ…と言われると嬉しい。/うまく言えないのですが…。/ババアの料理は独学で、まあ、おいしいとは言えない。真夏に、おでんが出る。なんで? と思うがババアの判断だからしょーがないのだ。》(p100-102)これは、一つの章に収まっている部分なんだけど、「しょーがない」が何度も出てくる。がしかしそれぞれが指示す「しょーがなさ」は違う。、自分の健康への「しょーがない」とババアの「しょーがない」、おでんへの「しょーがない」。「しょーがなさ」のくりかえしにしてずれていく感じ。「だるさ」も「めんどくささ」も「つらさ」も「眠さ」も「疲れ」も「痛み」もそれぞれ何度も登場するのだが、これらのどれも、例えば「めんどくささ」も、示すものが同じであったり違ったりするし、一致やずれがあらわれてる……………………………………。エッセイでも漫画でもそうだけど、(漫画の場合は、多くは先輩へ使われるものとして、また独白やナレーションとして)時たま敬語、というか丁寧語、ですます調、が混ざるのがなんでかおもしろいし、えんぴつ漫画も当然おもしろい。微妙にエッセイとリンクしてるとことか。
《フライは特にめんどくさい。フライは…マゾい。》(p117)「マゾい」って…。