デヴィッド・フィンチャーベンジャミン・バトン 数奇な人生』を渋谷で見た。
7回雷に打たれた老人が、繰り返し語っているはずの自らの体験を、これもおそらく何度も聞いたに違いないベンジャミンに語るとき(それが、実の父親との正式な再会を終えてだったか、デイジーとの気まずく終えた逢瀬の後だったかは、忘れてしまったけど…どちらにせよ、彼にとって疲労感の残る夜のこと)、いつものように老人の語りは古ぼけたフィルムの映像と主に語られ、ベンジャミンはそれを黙って聞く(彼は、この老人に対しては特に無口になる…そして、デイジーの「今日は無口ね」という評価は正しくないと思われる。彼は、まず自分の事を自分から語らず、聞き手となり、そして、自分に対して何らかの働きかけをされた時も(例えば質問された時)、相手に対して、なぜ、その働きかけが為されたのかという疑問を投げかける…質問に質問で返す(もしくは意味を成さない返答をする)ことをよくする)のだけど、その後、老人は、くん、と鼻を鳴らし、「嵐が来る」、と告げる、そのことに、なんだか泣きそうなくらい感動してしまった。それがなぜか、はわからないけど、この物語が、カトリーナから始まっている(カトリーナというのはやはりでかい出来事だったのかな、と思う。第一次大戦からの物語が閉じられる形でカトリーナが配置されているといえるわけだし)ことを思い出しもして、そこに、過去と未来(現在)が響きあうのを感じて、だったのかもしれない。『ゾディアック』の天気雨ほどじゃないけど、この嵐も良かったし、バイクが道を行く背後の暗雲と雷も良かった。
カトリーナ、の話、でもあるんだけど(それがすごい重要な気もするんだよなー)、例えば、冒頭にジョン・ゾーンの名前を出し、リンカーンを射程に収め、あの、ずばらしい銃弾の来方がやばすぎの海上での戦いで二次大戦を入れていることから、ベンジャミンの人生とアメリカ史がある程度重ねられていることはわかるんだけど、実はそうじゃなくて、だって音楽は、ビートルズくらいだし、ベトナム戦争もないし、どっちかつーと、どんどん寓話というか、寓意性が高まっていってる映画だと思う。その、寓話的な感じ、というか「物語」な感じ、は、もちろん、この映画が、娘が母に枕元で読む物語が発端になっていることや、盲目の時計職人(!)の話、老人達の話、ピグミー族の男の話、神父の説教、デイジーの祖母が呼んでくれた絵本、船長の話、エリザベスの過去の挑戦の話、そして絵葉書や手紙、などの、ほら話めいた(そもそもベンジャミンの「数奇な人生」がほら話のようでもあるわけで…それが、デイジーに、そして娘のキャサリンに接続されてしまうことに感動したりしなかったり(?)するんだけど)様々な語りが、入乱れ錯綜し折り重なっているによっても強められている。そして、赤ん坊を抱いて夜の街を疾走する男や逆回しの戦場、といった、悪夢のようなヴィジュアルもそれを支えている。
まぁそもそもベンジャミンがそのような存在でもあるわけで。彼がとことん、陽に対して陰(逆でもいいけど)の存在である事は、彼にとって重要な出来事(であり彼が行動を進めていく)のは、すべて夜であることからもわかる。デイジーとの秘密の打ち明けあい、実の父との再会と売春宿と飲酒、そして父との別れ、ティルダ・スウィントン(なんかすげーよかった)との夜通しの会話、大人になってからのデイジーとのデート、それらはすべて夜ないし明け方ぎりぎりの時間に起こることだ。まるで彼は、人々と、生活する時間すらも逆であるかのように。
そして彼の連続性は断ち切られている。我々は、成長していく人間を、別人だと思うこともできるがそれは決して本心ではなくて、以前の彼と今の彼がつながっていることを確信しているのだけど、ベンジャミンは、その姿を親しい人に見せるたびに、まるで別人のよう、という印象を与えている。まぁこれは、映画的に、実際別人だったりするんだけど。そういうことも加味されて、彼は、様々な人から吸収する人生について考え方、ある人は、自由に好きに生きろと言い、またある人は自分の選択の大事さを語り、それをベンジャミンも尤もだと思い、実行しようとするんだけど、これらの考えは(というか映画の中の人生観)は、すべて、自己や自我の存在、人間は一つの個体であるという考え方が前提となっていて、そして、先述の通りベンジャミンの連続性は途切れているから(まさしく彼はとぎれとぎれの登場の仕方をする)、まったく意味が無い、というか通用しないようになっている。
彼は、その起源から、他人(娘)によって語られることで初めて、自己に確証が得られたのかもしれない。
ケイト・ブランシェットの美しさがはんぱないなと。若いころのデイジーが、胸と背中が大きく開いたドレスを着ていて、その後、おばあさんとなったデイジーがベンジャミンに会うためタクシーに乗り込んだ時、来ている服のハイネックを手でさわって気にするところにぞくっときた。
そして、ブラッド・ピットのアップ。ちょっと首をかしげた顔が、世代を変えて何度か映される。
エンドロールの、インドの撮影のとこで、「TARSEM」って出てたと思うんだけど、これってターセムのことなんだろうか。あのちょっとのシーンを?まぁたしかに、高台から背後に眼下の町が見下ろされるような感じなのは良かったけど。

マサオ・ミヨシ、吉本光宏『抵抗の場へ―あらゆる境界を超えるために マサオ・ミヨシ自らを語る』を読み終えた。むちゃおもしろくて熱くて、しかし平静に当たり前のことを主張している本。