松本人志『しんぼる』を渋谷で見た。
大日本人』における、海原はるか師匠演じる締ルノ獣の最後や、板尾創路の匂ウノ獣が出現した時の渋滞など、「あーなったら、こーなるだろ」的な考え方(それは虚構の世界では切り捨てられがちな、起こってないものとされがちな事だ)が、今回はふんだんに描かれている。それは、それ自体では一つの用途しかないものに、別の用途を見いだしていくという行為が描かれるので当然という気もするが。つまり、脈絡のないものに、脈絡を読んでいくということ。
しかし、一方で、この映画には無数の脈絡の無さが存在している。メキシコのパートもそうだし、ものの出現、後半の展開など。『大日本人』は、最後の展開が、非論理的であるよりむしろ、論理的であろうとしたゆえのものだった、と思うけど、『しんぼる』は、完全に非論理の肯定というとこまでいっている。もっとも非論理的な存在が登場する。世界は元々非論理的で脈絡など無い、ということ。
見られること・笑われること(天使の笑い声)、「しんぼる」(を刺激する…)・象徴・徴、痛み、中間に閉じ込められること。
メキシコパートは違うのか…でも白い部屋の撮り方は簡潔な説明的カメラワークって感じで好き。
主演は、前回と違い、松本人志でなくともよい状況になっている。言葉のニュアンスみたいなものが、ほとんと現われていないから。たとえば…役所広司とか?
しかし、次作はどういったものになるのか。犯罪者、とか、死刑囚とかが登場するのでは?とぼんやり思った。

Jay-Z『THE BLUEPRINT 3』買った。