20世紀の作家と言われて、プルーストカフカジョイス、がすぐ出てきて、その時にベケットが出てこなかったのを今気づいてショックだった。
その時には、ウルフの名前もあげた。この人を未だに「意識の流れ」で片付けるのは違和感がある。でも、そういう風潮(?)に飲まれているから、ベケットが出てこなかったのかもしれない。
ロブ=グリエとかシモンも、頭の中にうかんでも出せなかった。
小島信夫『美濃』読んでいて、その異常さに怯えつつ面白がっているけど(突然の感嘆句(!)とか、情緒不安定か、って感じがする…が、そもそもそれが当たり前なんだ)、ある一点で世界をひっくり返してしまう深沢七郎とか、そういう人たちを読むと、もうなんだかすべての(小説の)ことがどうでもよくなってしまう。
とかなんとか思いつつ、舞城王太郎『ビッチマグネット』買って読み終える。これは…やばい姉ちゃんの精神の放浪記というか…舞城の、語り手がある地点からスタートして問いかけ続けながら別の地点(ゴールではない)にとりあえずたどり着く、というタイプの小説。最近の、文芸誌に載ってる舞城の作品は多分ほとんどこのタイプ…だと思う(『ディスコ探偵水曜日』以降)。いや違うか?一瞬読んだだけじゃわからないところがあるから…前後に盛り上がりがなく瞬間異常さが吹き出る感じだからなー。今回でも、キリンの股の下のメッセージとか、それっぽいが、現実にとどまってはいる。三輪あかり、が全面的に悪の象徴ではあるんだけど、…それっていいのか?…いやそれも今更だなぁ、舞城は前からそうだったよ。佐々木花や、広谷和志のように、(それが救いを与える嘘・虚構・物語であったにせよ)別の側面を見いだし憎しみなら逃れられる機会を与えられる存在では、あかりちゃんはなかった…がしかし、これも前者がよくて後者がだめとかではないだろう。
bitch性というのは誰でも持っているんじゃないか?というか、みなビッチだろう、という話。