クリント・イーストウッドチェンジリング』をDVDで見た。

アンジェリーナ・ジョリーがすばらしい…というか、このような抑えた「演技」があり得るのかという驚きがまずあった。しかも、これ自体が一種の「ふり」になっている。
(コリンズ夫人の「異常さ」の描写だった、というので十分なのだけれども)
彼女は、ハリウッド的女性たちと違い、喚かず、言葉を選び理路整然と喋る。それによって、大きな論理に依って喋る男たち(彼らは相手=女性を説き伏せ懐柔しようとする)と対等に渡り合おうとする。
だが、警察やそこに連なる精神病院の圧倒的な権力によって彼女の言葉は力を失う。
なぜなら、この物語はそもそも、非論理的な閃きから始まっているからだ(ジョーンズ警部の感想…汽車に走り寄るコリンズ夫人を見て“Women.”(「女だな」)と)。「私の息子ではない」という感覚(それを立証するために論理は後からついてくる)。ゆえに、論理性では限界がやってくる(だからこそ精神科医によって矛盾を指摘され異常のレッテルを貼られ「何も言えなくなってしまう」)。
そこで、病院で出会った同じ境遇の(権力にねじ伏せられた)女性の言葉と出会う。「女性の言葉」ではない言葉、とコリンズ夫人は言うが、そうではなくて、正確に言えば、本来ならば使えるはずの、しかし使用を抑制することで大きな論理と対決しようとした、言葉。それは正常でいようとすることによって(そうすればこそ)閉じ込められてしまった沈黙を切り裂く言葉だ(まぁ悪態なんですけど)。それは、「売られたケンカを買い、ケリをつける」という感情に素直に従うことへと彼女を導く(今まで押しとどめてきた警察との対決姿勢)。それもまた非論理だ。
こうして彼女は、最終的には、一種きちがいじみた「希望」までたどり着くわけだけれども、誰に説き伏せられることなく。

しかし…。それにしても…。史実なのかもしれないが、2つの裁きを同時進行させてしまう些か強引ですらあるストーリーテリングははんぱじゃない(それらが傍目からはどちらも勝利でありながら内実は真逆であるところとか)。
この映画の後半に、息子探しの物語と並行して、ゴードン・ノースコットによる大量殺人が暴かれてゆく過程が存在している。そこでの刑事と少年のやりとりがまた素晴らしい。というか、ぞっとするリアリティがあった。ここでは別に、過去に(今でもいいのだけど)こういう刑事がいて、少年であっても犯罪に関わっていればそれ相応の扱いを受けていた(それは保護とは違う)ということが実際にあった、というリアリティではなくて、なんというか、ここにある人間がいるという強い存在感を感じる、というような…わかりずらい。というか、
あとは部屋の暗闇、差し込む光、に照らされる顔。「取り替え子」の不気味さ(うつ伏せの寝方、出自の不明さ)。


チェーホフ『子どもたち・曠野 他十篇』読む。多幸感。