キャスリン・ビグローハート・ロッカー』を渋谷で見た。

ジェームスは、決して爆弾処理を人生観の比喩として使ったりはしないし、哲学も語らない。彼はただ、「知らない」「わからない」「何も考えてない」と言い続ける。仲間が1人、戦線離脱する際に罵倒されても、ろくなことが言えない。こういうところが(こういう人物でしか描けないのが)今の戦争映画だ。この映画は、感情描写に一線を引いて、そこを踏み越えず人物を描こうとする。何が目的なのかわからないまま、危険に身をさらす、という非常に不条理に見えるのだけど、実際その不条理が、現実に存在するのが今の世界なわけで、だから、映画の登場人物の行動の理由なんで、どーでもよく、ただそこに行為があればよい。
と、いうわけで、この映画は徹頭徹尾行為だけで成り立つ。しかもそれですら、決して核心に至るような行動ではなく、その周囲をうろつくことしかできない。
犯人というかテロリスト「らしき人々」は、カメラで撮影したり、携帯を持ったり、合図を送ったり、ただ見たり、直接相対する構図には決してならない。そういう武器が、爆弾なのだから(遠方からの狙撃も)、当たり前っちゃあ当たり前なのだが。一番最初の処理の時の、駆け下りてきてジェームスと見つめ合う男ですら、何をするわけでもない。そこには解釈不能な行動だけがある(それによる戦いがゲリラ戦なんだろう)。
象徴的なのは、ジェームスが、DVD売りを脅して、少年の死の内部へと歩み寄ろうとするところで、彼は結局、なんだかよくわからない場所にしかたどり着けず、何の解決もできないまま、逃げ帰ってきてしまう。しかも少年は死んですらなく、ほぼ無意味な行動と化してしまう。
あそこには、ただただ悪意や敵意だけがごろっと存在している、とすら感じてしまうのはある種の傲慢さだろうか。
核にふれる言葉はなく、核にふれない暴力がある(兵士たちのパフォーマンス的殴り合い)。
でも、子供関連のエピソードや語りが、妙に空々しい(今時あんな決心はないだろう…)…が、それも逆に、リアリティととろうと思えばとれる…か…。そしてその空々しさですらこの映画では主人公と非戦闘・死の緊張から距離を置くことをつなぎ止める楔にならない。
おもしろいのは、狙撃の仕合で相手の銃口が光ったとたんに撃ち殺される、とか、狂気の鉄鋼製鍵付き人体装着爆弾とか、土嚢の袋とか(これから見る度に思い出しそう…軍医の死に方!)とか、街中の戦闘の強烈な緊張感(ビルの屋上からとか高さの異なる視点の交わしあい)とか、そういう現代の暴力の細部だったりする。主演の人最高。
岩本ナオ町でうわさの天狗の子』6巻と『雨無村役場産業課兼観光係』3巻、中原昌也『名もなき孤児たちの墓』、ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』買った。とりあえず岩本ナオは読み終えた。天狗の子は、まぁ、入り乱れて、でも一つ一つの要素がうまいとこついてく感じ。赤沢ちゃんとか金ちゃんとかにクローズアップしていくのもやさしいなと。雨無村は、ちょっとパワーダウンしつつも、なんとも言えない人間の機微が描かれていたように思う。けどこれ、ぎりぎり少女マンガを逸脱しちゃってるよなー。中原昌也は読み出したら、…。ピンチョン読みてーけど。
わが家の歴史』見た。大泉洋とか佐藤隆太は、三谷作品にばっちりはまってる。佐藤浩市山本耕史藤原竜也西田敏行伊東四朗なんかは、文句なし。