キャスリン・ビグローゼロ・ダーク・サーティ』見た。

新人CIA捜査官が、中東の某国に派遣され、そこで行われている、アメリカが行っていること、捕虜への紛れもない拷問、を目の当たりにする。そこには目を背ける身振りと、それでも向き合わなければならない義務感の表れが在る。時がたつにつれ次第に彼女は、重要な情報を保持しているとみられる人物をとらえたことを声を上げて喜び、おそらく拷問で苦しめられたであろう相手に、躊躇なく尋問をするようになるだろう。
こうした変化は普通なのだろうか。次第に慣れていく、ということは起こりうるのかもしれない。だが、その現象は、その「普通さ」は、存在してよいものなのだろうか。
シールズの面々が、隠れ家に突入する。向かってくる男女を射殺した後、その子供たちに「okay,okay」と、大丈夫だから、と、繰り返し声をかけ慰める。その振る舞いは、確かにその場では適切なものなのだろう。しかし、それはあまりにも異常な行動である。思わず笑いがこぼれるくらい、破たんしている。
異常であること、が積み重なり、それがいつしか当たり前のものになる。マヤにとっても、観客である我々にとっても。
そして、最先端に、異常さの切っ先に近づけば近づくほど、なされる判断は、従来のルール、定型、ありうべき形を逸脱していく。確かな証拠はなく、推測と消去法で動くだけになる。それがミスを生む。過剰な緊張状態が起こる。危険を手繰り寄せる。
それは信念、なのかもしれない。または狂気に満ちた執着心か。はたまた弔い合戦か。パトリオティズムか。そのどれでもあるし、どれでもない。どんな理由にせよ、そうした理屈をつけて、この映画でなされている行為を、何か、見知った形に、収めてしまおうとする。
それがエンターテイメントだし(キャスリン・ビグロー監督作品だし、と同義だが)、だからこそこの作品では、箇所箇所、べたな落としどころを存在させている(その腑に落ちさせるような構造が実は十分おかしいのだが)。CIAの拷問は、『デンジャラス・ラン』を見て、ジョン・ロンスンの『実録・アメリカ超能力部隊』を読んだことのある者としては見知ったものであるし――見知ったものが登場する「喜び」こそあるが――、ラスト、マヤとある「死体」が対面するシーンなど、その演出も含めて、ありがち、ではある。
だが、黒というより灰色の濃淡のある暗さの中で、奇妙な静けさで行われるヘリコプター移動、震えるリアリティの襲撃作戦(この映像は…おそらく肉眼ではこうは見えないだろう。闇に覆われつつ、そこにあるものははっきり見て取れる、そしてそこにあの見覚えのある暗視映像が入り混じるという素晴らしい撮影)を切り裂く、おそらく聞いたこともないような銃声と爆発音、うつろな目と動きで死体の間を抜けて特別なある一つの死体までbody bagを持ち込む兵士、最後に待ち構える、こちらを見据えるような姿勢の、しかし実際に見ているのではない、マヤから流される涙が、そこから這い出し抜け出るようにスクリーンに刻まれている。
そして今週の『最高の離婚』でまたも打ちひしがれるというね。