宮崎駿風立ちぬ』見た。初日の一回目。

本編で、何度も為される、風と、帽子や紙ひこうきを介した二郎と菜穂子の交感だけど、予告で使われていなかった、日除けの大きな傘を用いたシーンがあり、そこでは、強風を受け暴れるパラソルが、必死に捕まえておさえつけられる。その様子はまるで、巨大な生物との格闘のようだ。それは、今作で顕著な、描線の不均一さ(立ち止まる人物ですら微細に振動している)や、人間の声によるSEによっても強調される。
後者の効果が明らかなのは、大地震の場面だろう。そこでは、文字通り「生々しく」波打ちうごめく地面や、鳴り響く怪音によって(また、舞い上がる火の粉を「見上げて」不安がる人々の様子がとらえられることによって、結果的に)、一種の「怪獣映画」の様相すら呈している!
生物と無生物、人称(キャラクター)と現象の混在。二郎の夢想の中の、近年のジブリ、というか宮崎駿作品に登場する、黒くうごめくもの(物なのか者なのか)。
全き禍々しいのはそれだけでなく、地震、戦闘機の空中戦と墜落、空襲、久石譲の「叙情的な」音楽をバックに、街を焼き尽くし破壊する、燃え盛る炎、のイメージの重なりや、舞い散る火の粉と破壊された家々、療養所の外に並べられるベッドの菜穂子の上に降り注ぐ寒々しい雪、そして、くだけ散る飛行機の部品、繰り返し提示される落下の運動である。
そして一瞬だがたしかに混在させられている、海面に立たされた卒塔婆のカット…。

だが、それらのイメージは、特別なものではない。なぜなら。

立ち向かう主人公の、空想の飛行機には、武器は積まれておらず、だからこそ攻撃されれば墜落するしかない。対して幻想の敵機は(それには所属を示す国旗のデザインがない)些か冗談のごとくあからさまに爆弾を大量に「繋げて」いる(まさしくハウルでの魔法的な爆撃機だ)。
機関銃がなければもっと軽くなるのに、という新型機の設計会議での二郎の発言は皆に笑われる。カプローニもまた、注文によって製作する爆撃機と、夢の中の「夢」(!)として作る旅客機、という同じであり異なるものへの逡巡を語る。
しかし、武器を積んだところで、「一機もまともに帰ってこない」のだ。幾らテストを繰り返し、失敗を重ねつつ完成度を高めても。二郎が後ろ姿をこちらに見せつつ眺めるぼろぼろになったテスト機、「地獄かと」思う映画後半の夢の世界(そこはさながら飛行機の墓場である)、は、戦場の姿を彼が幻視しているかのようだ。

いかなる時代であろうとも、飛び上がるもの、上昇、は、いつか必ず下降する、落ちてくる、のだから。
(ここら辺、テストの反復と、登るのではなく潜る、『真夏の方程式』と並べて考えたくもなる)

だが、この映画で描かれるのは、その落ちてきたものが地面へと叩きつけられること、ではなく、空中を漂う姿だ。破壊された木材や、落下傘。
それは、破滅、ではなく作中の言葉に則るなら「破裂」、を迎えることは自明なのだが(戦争には負けるし、日本人はすぐそのことを忘れてしまうだろう)、それでもそこに至るまでの時間で、美しさを追い求めるしかない。
一日一日を大切に生きる二郎と菜穂子が、最後には離れ離れになってしまうのも、この意図的な、過ちや破滅へと移行する途中の、宙づりの状態(それが「一番きれいな」時である)の映画であるからこそなのだろうと思う。

その他に。
「でも、牛は好きだ」という台詞のストレートすぎる発話を耳にすると、庵野さんの良さを感じる。
いいも悪いもなく、ジブリヒロインにはやられるしかない。なんなのこのキャラ造形は。もはや狂気。「来て」じゃねぇ…。
こりゃあ、シベリアブーム来るな…「ジブリ最新作で登場!話題の『シベリア』ってなに?」みたいな企画が夕方のワイドショーとか週刊誌に登場するのが見える。ちなみに自分は、現在60代半ばの父親に、子供の頃食べさせたもらった。その時は、その狂気的なまでの甘さ同士のぶつかり合う味に面食らった。
食べ物でいえば、鯖の味噌煮や大量のクレソンを食べる、という食事のカットを必須で作品に入れる宮崎さんはやはり信用できる。

観終わったあと、渋谷駅前で選挙演説(まぁどことは言わんけど)がほんと余韻ぶち壊しで殺伐とした。

武蔵野美術大学 美術館で、『ET IN ARCADIA EGO 墓は語るか 彫刻と呼ばれる、隠された場所』見た。新宿で万世の万かつサンド買っていって大学で、「こういうの好きだなシンプルで。ソースの味って男のコだよな」と言いながら食べた(でも途中で飽きた)。しかも構内にあるパン屋が営業していて、それを食べればよかったと後悔した。

若林奮の『雨―労働の残念』と、岡粼乾二郎の作品群がおもしろかった。こういう企画展は、まとめて考えるのが難しく、個別のものについて語りがちになってしまう…のだけどしょうがない。

一先ず、今はちょっとおいとくとして…。

新宿で、リチャード・リンクレイター『バーニー みんなが愛した殺人者』見た。

当然のごとく、作中インタビューに答えているカーセージの住民のほとんどが実在の人物であるということが判明するエンドロールで度肝抜かれたんだけれど、それはなぜかといえば、かなりデリケートな問題、例えばセクシュアリティ、について、やれゲイっぽいだの、敬虔なクリスチャンだからそれは有り得ないだの、と皆がずけずけ好き勝手に語っていたからで…。
主人公であるバーニーが、理由も不明瞭なまま街に現れ住みつき、彼の演じること、装うことへの奇妙なまでの執着や関わり、――エンバーミングの技術を持ち、故人のエピソードを改変し、舞台の演出もし、情感のこもった歌唱技術――、をふんだんに描いてから、事件発生と隠ぺい工作をした後の罪の告白、という作品の構成や演出のため、殺人への後悔の号泣、が果たして真実かどうか、観客に(それは無論「陪審員」のことでもある)疑惑を持たせることとなる。こういう作りの映画を、その当の本物のバーニーやら彼の支持者やらが協力し容認する(しているはずだ、と思う)というのは一体どうしたら実現できるのか? おまけに殺されたマージョリーの遺族も当然いるわけで。アメリカという国の風土なのか、金銭なのか、契約なのか、エンターテイメントへの異常な寛大さ、なのか…。
ともあれ、マシュー・マコノヒーVSジャック・ブラックのほぼ共演シーンなしのキレッキレの演技対決や、葬儀社の移動カメラワークやミュージカルのワンカット、いかにもテレビ的構図のインタビューシーンと映画の混在など、おもしろい。
そういや2、3日前、日本橋で運転してて何気なく左を見たら、明らかに岡村ちゃんな人がリュックしょってあるいててびびった、のを今思い出した。なんだったんだ、あれは。