風邪、依然として治らず。微熱続いてひたすらだるい。長い時間出歩けない。


柴崎友香『主題歌』読み終えた。

主題歌 (講談社文庫)

主題歌 (講談社文庫)

《なんで、なにもかもこんなにきれいなんやろう、と絵莉は思った。今までも何回も思ったことがあることだったけれど、何度目でも初めて思うみたいな強さでそう思うのだった。》(p180「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」)
短篇の間に、何度も何度も、世界への肯定感を強調しすぎて、宗教のブックレットみたいになっている。『ダロウェイ夫人』はそんなことない、あれも肯定の小説だけど。単純に頻度や、直接的すぎる表現のせいのような気がした。言わんでもわかるわ、ということか、描写さえあれば。


ついでに(なにがついでかわからんが)途中だった、岡田利規『遡行 変形していくための演劇論』も読み終えた。

遡行 ---変形していくための演劇論

遡行 ---変形していくための演劇論

演劇においては、ことさら身体の過剰さをアピールしなくても、日常からすでに身体は過剰である、という主張に続いて、《僕にとって「過剰」とは、すでにそう言っていることからもおわかりのように、「スリリング」とか「ノイジー」といった言葉に置き換えられうるものです。しかしそうではなく「過剰」とはどちらかといえば「パワフル」とか「エナジェティック」といった単語と置き換えられるべきものであるということなら、(…)後者の類の過剰さには、興味がないのです。作り手としてはまったく欲しませんし、観客としても、ほとんど欲しません(たまに見ると良いもんだと思うけど)。》(p208)と、岡田利規は述べている。
この「スリリング」とか「ノイジー」というのは、同じ出自でありながら(1人の人間のイメージ、として「捏造」された――なぜなら演劇はテクスト=言葉=台本から始まらざるを得ないから――「シニフィエ」)、そこから出て来る、言葉と身体(だから決して従属関係にない)、のずれ、の魅力、ことを言っている。
『凶悪』の山田孝之について、自分が感じていることは、これに近いのかなと思った。確かに彼の演技、パフォーマンス、は、「パワフル」で「エナジェティック」、だが、言葉=テクストに従って、そこから導き出された身体表現を行っている、というわかりやすさゆえに、「スリリング」でも「ノイジー」でもない、最大公約数な表現になってしまっている。
それが悪い、ということではないけれど、その単純さ、にどうしてもひっかかってしまう。この映画のモチーフがゆえに(作品内で行われる行為たちは、そんなシンプルに割り切り受け止められるものではない)。


ゼロ・グラビティ』褒められすぎて戦々恐々としている。…。そんなにみんなキュアロン好きだったの?


SMAPの新曲、尾崎世界観、タイトルは「ハロー」、ハローキティ記念曲、という情報からして、「Joy!!」に続く多幸感あふれる曲になるというイメージを持ちたい。


三池崇史悪の教典』について、《好き嫌いで言えば大キライですけど、本編は確信を持って作られた巨匠の映画でした。》と言っている人がいて、完全に同感。自分は好きだけど。「確信を持って作られた」映画でないと。


あまちゃん』、http://d.hatena.ne.jp/richeamateur/20130930で書かれていることについて。

あまちゃん』は最後の一月半ほどを観て(それ以前の回もダイジェストでなんとなくは知っている)、前にすこし書いたけど(9月5日)やっぱり震災の描き方はダメだった。表現がよくないというよりも、表現をしていないという印象。もっとも、震災を描けないのも、ここまで世間で話題になる作品がつくれるのも、同じ宮藤官九郎という人なのだろうと思う。

最近はテレビドラマやアニメをほとんど観ないせいもあってか、毎日の15分の連続という朝ドラの構成形式(およびそれと生活との関係)はとても新鮮に感じられた。『あまちゃん』において、この構成形式に即した各回のトピックの盛り込み方やテンポのよい展開が成功していたことは間違いない。しかし一方でやや疑問なのは、そうして話が目まぐるしく展開するあまり、すこし離れて見てみると、ある時それぞれの登場人物が人生の一大事として経験し、視聴者もそれに感情移入して共に泣き、共に笑ったトピックが、その他に盛り込まれたトピックと(直列というよりも)並列にされることで、相対的に軽んじられているように見えてしまわないか、ということだ。僕自身は最初から通して観ていないので言いにくいことではあるけれど、例えばアイドルや女優を目指して様々に体験してきた出来事やそれにともなう思いは、地震の後に北三陸に帰るという新たなトピックと必ずしも直列的にきちんと関係づけて描かれていない気がするし(「説明不可能な衝動」という描写でもない)、東京での先輩との甘酸っぱい恋の話(と元カノとの関係)は、その後、放ったらかしではないかという気もする。

方法としては、複数のトピックの関係をそれほど考えずに、その個々の充実だけを考えて部分を積み重ねていくことで全体がひとつの漲った状態に至る、ということも可能だと思うのだけど、『あまちゃん』はそこまで振り切って作られている感じはしない。それはNHKの朝ドラという枠組みではやはり難しいことに違いないし、このドラマが基本的には(日本語の意味の)ポピュリズムを基盤にしているということにも起因していると思う。このドラマを構成している様々な要素は、基本的に「この操作をすれば視聴者はこう感じる」という一対一対応的な関係に基づいている。そうした個々の要素の巧みさや的確さによって、あれだけの人気を得たのだろうし、僕も最後まで観続けたわけだけど、やはり一対一対応の言ってみれば機能主義的な各要素は、作品の内部でお互いに響き合ったり有機的な関係を生成したりはしにくいのではないかと思う。

と同時にこうしたポピュリズムは、それが想定している範囲外の属性の人には作品を閉じたものに感じさせてしまう(実際『あまちゃん』も話題になっている割りにすべての朝ドラファンから支持されているわけではないらしい)。ただ、そこでその閉鎖性から比較的自由でありえるのが生身の役者の存在なのだろう。『あまちゃん』では何人かの役者たち、とりわけ能年玲奈薬師丸ひろ子が輝いていた(宮本信子はいつもカツラに違和感を抱かせた)。ほとんど新人の能年玲奈に対して、薬師丸ひろ子はすでに様々な歴史を抱えていて、その対照的なふたりの輝き方には脚本やキャスティング、演出の力も当然作用しているのだと思う。

こうやって考えてみると『あまちゃん』は、ポピュリズムの閉鎖性とポップなものをとりこむことの開放性や可能性を両方感じさせるドラマだった。

思うのは、宮藤官九郎は、ドラマ内で起こる様々なエピソードを、重いもの、重要なもののように描こうとはしていないんじゃないか、ということ。多くの、他のテレビドラマで、中心に置かれ、重大なことのように扱っている、例えば「恋愛」、人物の「過去」、そして、「死」、についても、どこか投げやりですらある。
真っ先に想起するのは『木更津キャッツアイ』だろう。ぶっさんの死、という「劇的」な出来事は、映画と映画の間に埋もれてしまう。
タイガー&ドラゴン』『マンハッタンラブストーリー』での、男女関係、恋愛関係の「軽さ」、いとも簡単にくっついては別れる、あっけなさも思い出しておきたい(『あまちゃん』においては、種市先輩・ユイ・アキ、の関係)。
本当の、人間の、「人生」(という大枠自体を信じていないのだろうけど、一先ず便宜上この表現を使う)では、《部分を積み重ねていくことで全体がひとつの漲った状態に至る》こともなければ、《お互いに響き合ったり有機的な関係を生成したり》はせず、《人生の一大事》なんてものもなくて(アキ曰く、人生に大事でない時期などない、ということ)、本来ならば分けられない「人生」を仮に分節し、捏造した(この時点ですでに問題なのだけれど、まぁ置いておこう)「トピック」と《その他に盛り込まれたトピック》は、断固として《(直列というよりも)並列にされることで、相対的に軽んじられ》るべきなのだ。
アキがユイについて心の中で「重い…」といったような、誰かにとっては大切なことや深刻なことも、他人にとってはどうでもいいこと、というのは往々にしてある。
テレビドラマ、という構造が、重さを発生させやすい、《それぞれの登場人物が人生の一大事として経験し、視聴者もそれに感情移入して共に泣き、共に笑》うことがたやすい、ということであって、果たしてこれは、「良い」ものなのだろうか、という疑問と、過去の因縁や将来の夢を実現させることや「震災」という、ドラマとして盛り込まなければならない「事件」、のせめぎ合いの上に、『あまちゃん』は書かれた、のではないかと。
ところで《表現がよくないというよりも、表現をしていないという印象。もっとも、震災を描けないのも(…)》という文章で、「していない」ことと「描けない」ことは違うような気がするのだけれど。


R100』のネタバレ読んだのだが、これが本当ならば、すげーおもしろそう(というか自分が好きそう)なのだけれど…。ただ評判は最悪だなー。