お金を渡す

路上で道や、駅の場所を聞かれたりして、その流れで、帰るための交通費を貸してくれないか頼まれる、というやつがたまにある。自分は何度か遭遇していて、結構その度に渡している。相手から連絡先を聞かれることがあるが教えたことはないし、連絡先を教えてもらおうとしたこともあるが、なんやかんや理由づけして教えてもらえたことはない。
つまり、親切心につけこんだ軽いカツアゲみたいなものだ、と解釈してる。「つけこんだ」とか、あまり使いたくないけど、他の表現が思いつかないので仕方ない。
最近も、おそらくそういう目にあった。おそらく、というのは、お金を渡すところまではいかなかったから。
聞かれたのはよりによって池袋の駅の中で、木更津への行き方だったんだけど、駅員に聞けばいいし、あと自分もすぐにはわからないから調べるしかないし、と言ったら、めちゃくちゃめんどくさそうに拒まれて去られた。
多分本当に知りたかったわけじゃないなと思った。そもそも、行き方を聞くのに駅の中はさすがにおかしくないか。だってすぐそこに教えてくれる人がいるのわかりきってるのに。交番も近くにないような路上でやるのが普通だろ。
と思って、駅内でそんな半カツアゲみたいなことするわけないから、もしかして本当に聞きたかったのか、と今考えてる。もしくはお金ではない、何か別の目的があったのか。大荷物を持ったおっちゃんで、そこまできちんとした喋り方もしてなかったので、何かの勧誘のようには見えなかったけど。

こういうお金の得方に対して、結果的には、そこまで反感を持ってない。その瞬間は、自分の外見が、いかにも引っかかりそう、懐柔しやすそうと思われたんだなと感じて、いやな気持ちになることは否めないけど。
盗みでもない、すごく微妙な行為だなと思う。だから、こういうのに絶対に騙されない、お金を絶対に渡さない、とも思いたくない。が、自分もそんなに裕福ではないから、施しの精神みたいなのものでもないが、まぁそれに近いものでもある。偉そうに見えるが、ひっかかってる、という体裁もあるから、あまり偉そうになっていないんじゃないでしょうか。
さらに言えば、お金を手放したいのかもしれない(『ジョジョリオン』のミラグロマン)。お金のことをあまり考えたくない。大人なのにめちゃくちゃやばい思想だ。そんなやつがこの先生きていけるのか、と自問自答する。無理かもしれない。鬱々とした気持ちになる。

たとえばこういう時、もっとシンプルに、お金がないのでお金をください、と声をかけたら、ないし、かけられたら、どうなるんだろうか。海外では、路上で施しを求める人の姿があるけど、日本ではそこまで直接的なものはあまり見ない。一昔前、というかだいぶ昔だが、傷痍軍人の方々がいただろうけど、さすがに見たことない。きっと今の日本ではあまりうまくいかないだろう。もっとシステマチックな方がいいんじゃないか。例えば「募金」。
話は脱線するけど、自分が最近、これはお金を出しやすい、と思ってるのは、マクドナルドのアプリでオーダーできるシステムで、支払う時にドナルド・マクドナルド・ハウスに募金できるやつです。

そして自分が、どうにかして、労働とか売買とかではなく、街の中で、お金を得よう(稼ぐ、ではなくて)としなければならなくなる時のことを考える。これから先、そうならないとも言えない、という気持ちが常にある。だから、求められた時に、無理のない程度に応えたいと思っているんだろう。そこに未来の自分の姿を見てる。