井上雄彦『THE FIRST SLAM DUNK』


映画ってそもそも自己と他者、見ているもの(現前するイメージ)とかつて見たもの(過去、記憶)、といった本来区切られていると思われているもの同士が混在して区別がつかなくなるメディアなのでこんなこと言っても詮無いですが、『THE FIRST SLAM DUNK』を見て感動したとかすごいとか言う前に、この感覚が、この作品固有なのか、それとも自分の過去の回想から来ているものなのか、少し冷静になりたい、と思ってしまった。そして冷静になりたいと思うことがこの作品の自分の評価なのかもしれない。つまり、またスラムダンクを読み返したくなる作品、という感じ(逆に言うと、読み返したくなった「だけ」、とも言えるのかもしれない)。我々は何度も山王工業戦を「再読」でき、そしてそのたびに感動することができるのだから、それでいいじゃない、という(?)。

ただそもそも、ある映画が、その映画にしか存在しない固有のイメージ、観客に与える感覚、を保持してる、というのもまた、ありえない幻想にすぎない、というのも認識しているつもり。
ならば別に今作も、このままでいいじゃないか、という話になるわけだけど、そこで完全にそう納得できないのは、やはり、それでもなお…ということだろう。それでもなお、固有のもの、その映画でしか見ることができないもの、その映画以前にはなく、その映画で初めて出現したもの、を追い求めてほしかったというか。そしてそれは、全編にわたっている必要もなく、数々の細部を同時に際立たせたり、そこに潜んでいるモチーフを晒してしまうような、ある一つの視点、ある一つの、例えば一瞬の電撃のような切り込み方(上手い包丁の捌き方…)、でよくて、ただオリジナルエピソードを追加するとかでもなく(それは元々の話を補完する程度の機能しかない…んじゃないですか)、しかもおそらく、技法の話でもない。というか、はっきり言いますが、私は新しい技法の話をしたくない、ってことです。それは他の人にまかせたい。とか言いつつ、何かを言うとすれば、カットバックによって接続された試合のシーンと屋上のシーンの違い、花道の回想ダイジェストの時の絵は一体なんなんだ、っていうのはある。これ以上は詳しくないので言えません。それに、普段バスケの話をしてるのを見たことないオタクがバスケの試合の臨場感が〜とか、音がどうとか言ってるのと同じことを言うのも、恥ずかしくて無理。

で、多分、その新しさ、みたいなものの一つとして、短編「ピアス」の掘り下げ、があったのだろうと思う。しかしこれが、おそろしいほどにピュアでノーマルでシンプル、これまでも様々な作品で繰り返し語られてきた物語なのだった。喪失、繰り返し、再生…。この特殊でなさを作品へ持ち込むことが、必要だと判断されたんだろう。少年漫画は特殊(な主人公、モチーフ、出来事)すぎるから…。

ところで、この付け足しによって今作は、ジャンプっていうかサンデー、集英社というか小学館の作品みたいになっていた。具体的には、過剰さを省いた曽田正人作品のようだと。だからこの作品を良いと思った人は、『め組の大吾』『昴』を読んだらいいんじゃないでしょうか。

それにしても、瀬々監督の『糸』もそうだったけど、テーマソングを複数使うのってありなの?大事なところで1回使う、って方が良くない?