ニーチェは、今日?』とフロイト『自我論集』、古本屋で金井美恵子『兎』(表紙の絵がかわいかった)と笙野頼子『居場所もなかった』を100円で買って、『ニーチェは、今日?』(「今日(こんにち)のニーチェ」ってことなのか)を少し読み始めて、最初はクロソウスキーの「悪循環」からだったのだが、ニーチェ関連のものはやっぱり面白い、のだけど、クロソウスキーの文章よりも、そこで引用されているニーチェの文章や、訳注(に引用されているクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』とかドゥルーズの『ニーチェ』(これらの本は、読んだほうがいいっぽい)の文章)のほうが、面白かったりする、というか、そっちのほうが中心みたくなっている。「悪循環」は概略的なもんなんだろうか。
悪循環と永劫回帰、が、意味や目的(を基体としている政治体制や指導者)をぶっこわす。だって、くりかえすのなら、始まりも終わりもなく、すべて一点で溶け合うから。
身体、は緒力の関係の中(ドゥルーズ)にしかなく、それは非個体化(フーコーの主体化、ドゥルーズ)したもの。

『居場所もなかった』も読み出した。京都は、歴史、というか意識、理性によっかかって、見る事ができたのだけど、東京は、感覚で見るしかなくなった。
騒音、が取り上げられているので、音、が呼び込む感覚(視覚もあれば、体感するものもある)が描かれている。
関係妄想、というやつか、次々と頭の中で連関を作っていって広げてしまって、…国勢調査が10年ごとに行われていることに気づき、《十年というその数を庚―カノエの年とふっと読み変えて》しまうと、《意味をもたない西暦の数字と違い、庚という言葉には鋤や鍬に使う金属などという意味もあるらしいし、一旦、意識してしまったせいで、そこだけ独立した意味を帯び始めた》。でも「金属」にまつわる妄想ではないのだ。この後出てくるのは。それがまずすごい。
「文章が良くなるかと思い」「二キロの」「梅干しまで漬けた」り、大家の「アレミマシタ」が「ヨレメメステのように聞こえた」(この「ヨレメメステ」に意味があるんだろうか、単になまって「あれ見ました」と言ってる、ように聞こえただけ、だとするならすごい)り…

携帯のカメラで、目の前を映しながら、歩いてみる。目の前の風景を、カメラで見ながら、歩く。

ベンヤミンの「1900年前後のベルリンの幼年時代(抄)」で、中庭が描かれている。どれは、子ども時代のベンヤミンにとって特別な場所、だったらしい。陽光降り注ぐ、季節を感じる場所。正確には、中庭を囲むロッジアなんだけど。つまりそこは、住居ではないがゆえに、住居をもたぬ人はそこに親和性を感じる。庭には土もあるし。住めないが、親しい場所、が中庭なんだろう。そこは、周りを建物に囲まれている。ベンヤミンの場合、外から持ち込まれた石像や、太陽の光にも注目するが、カフカにとっては、圧迫感だったんだろうか。しかし、庭に触れざるをえない。住居=土地を持たぬがゆえに。
《だからこそ、ぼくがうちのロッジアで向かい合った午前は、ほかのどこでよりも午前そのものと思えるものに、とうからなりおえていた。ぼくがここで午前を迎える、ということはけっしてありえず、いつでも午前のほうが先廻りしていて、ぼくを迎えるのだった。》p265
都市を、迷い歩くには、技術がいる。都市に在るものを、森の中で迷った時に頼りにする例えば切り株や道に落ちている木の葉、のように見ることの難しさ。