資生堂ギャラリーでの、キムスージャ展は、四方の壁のスクリーンに映像が映し出され、真ん中の椅子に座ってそれらを見る、という形の作品がまずあり、その映像は向かい合う2つの映像が、それぞれ対になっている、という風にとりあえず思える。"Deep Water"と"Water with rock"は、それぞれ、海面や、波が打ち寄せている様子の映像であり、じっと見ているうちにだんだん「波」の意味というか、波であることが解体されていって、自分が何を見ているのか、見ているものは何かわからなくなる、とは言っても、前者は沖、完全な海面で、後者は波打ち際、砂浜や岩に打ち寄せる波であって、波の性質としては微妙に異なり、そして、両者ともスローに加工されているのだけど、そのスピードが違い、後者と違って前者は、かなり遅くなっていて、というか遅くなっているのではなく、まるで、連続に撮った写真をつなげているような、ぶつ切りの映像にすら見える。
一方"Eclipse"と"Reflection"は、共に太陽がモチーフとなっていて、後者は、砂浜に打ち寄せる波の表面に映った、おそらく沈んでいく太陽と、それが放つ光が、これまた見ているうちに、水面をみているのにまるで、ちらちらと燃えている炎と、飛び散る火花のように見えてきて、そのアンビヴァレンツさが面白かったり、しかし、太陽と火の関係を考えると、一旦太陽が、その属性とは反する水の表面に宿り、再びその根源としての性質である火を獲得した、といった流れがあるようにも思う。では"Eclipse"は、と言えば、これが奇妙な作品で、海の向こうの水平線に沈んでいく太陽が、夕日、そして完全な夜への移行と共に撮影された映像と、どうやら、その夕日とは別の場所で撮られたらしい、ということはつまり時間だけでなく場所も違う、月が昇っていく映像が重ねられている。しかし、おそらく、この2つの映像は、主従の、先―後の、関係にはない。というか、そう思ってしまっては、これら2つの映像の、時間や場所の差異を、強度を持って感じることができなくなってしまうだろう、とは思うものの、これも解説を読んで知ったのだが、右隅にうっすら映っている影、のようなもの、は、月の映像を撮影した際に映ったヤシの木らしく、これがここまでぼやけたようになっていて、作品が、ほぼ全部太陽の映像の背景であることから考えると、どうやら、太陽に、背景を飛ばした月の映像を重ねる、といった作り方をしているんだろう…がしかし、やはりこの関係は関係なくて、核なのは、時間のずれたもの同士が一つにまとめられている、ということ。そうすればだから、太陽と月と海とヤシの木、のどれが、見ている現実に、撮影されている現実において本物なのか、どれかはもしかして幽霊なのか、と考えることができる。
この四つのスクリーンを全体として見た時、時間(撮影された時間であり、また映像として流れる時間でもある)も場所も、ばらばらなのにもかかわらず、海、という巨大なファクターにおいてみれば、まるで、同時に起こっているようにも感じられ(見られ)、会場に流れている「一つの」波の音(疑おうと思えば、音なので本当の波かどうかもわからなく、そこも面白い)によって、ある種強引に一つの空間にまとめられているように感じ、そこの齟齬、ずれを体験することができ、また、2つの波の映像と"Reflection"は、海の表面を映し、遅くなったりしつつも一方的な時間のなかで、あるのは岩や砂や反射する太陽の光であって、それらは見てているうちにその存在の本来の姿を失うように見えてくる反面、"Eclipse"は、意味から離れない、明確にそれと分かり続けるしかない太陽や海があり、しかし、ぼやけたヤシの木や光る円でしかない月、といったものが重なることで、もの、がではなく時間がわからなくなっていく、というような違いを考えると、これらは二対、ではなく、3:1、の構図になっていると考えられるし、唯一はっきり太陽が映し出された映像の向かいに、波の表面に映る太陽、その組の両脇に海面、とまるで、古典的な立体映像と思えるような形になっている、と考えることもでき、撮影された時間と空間、そしてそれを見る時間と空間、のそれぞれが、同期したりずれたりする、不気味なしかしすばらしい経験が得られる作品だった。