中野正貴 東京」をエプサイトで見た。
ビルには窓がたくさんついていて、水面も物を映しつつ同時に透けてもいるから窓の機能を持つ。と考えるならば、窓だらけの写真展であると言える。網戸やサッシ(同じものか?)があり、ガラスが強化ガラスなら網目がついていて、ベランダの塀や柵や手すりもあり、それらが、組み合わさったり中途半端に姿を現していたりすることで、窓の存在(理由というか機能というか目的)がどんどんあいまいになっていく。外部を排除するものであり、外部を(完全にでなく不完全な形で)受け入れ取り込むもの(これが本来の窓といえばそうなんだけど)。お台場の、人のいない、空き地というか再開発を途中でほっぽったような、見捨てられたように見える、しかし、分からないレベルで進行しているのかもしれない土地の写真には、当然フジテレビやら多分テレコムセンター他のビルの窓が写っているし、それに、空き地を道に面した方は、木のくいと、その間に張られた針金?、黒と黄色もヒモ(まさしく、の配色)で区切られていて、そのすぐ奥には、コンテナが何個も積まれていて、それを見れば記号的に侵入できない、してはいけないと思うんだけど、実際はどうかと言えば、入れるわけで、つまりこれも、排除であり受容の構造になっている。人はまったく写っていないが、人が使ったもの/使うもの(バイクや自転車など、人間が便利に使えるような形状のものや、ゴミ袋や看板、信号、もちろんビル)は存在するので(しかし例外的に、道路は想像力が及ばないものととらえることも可能な感じがする…のはなぜ)、この点でも、写真を見る視線は、人がいないので、まるで跳ね除けられている印象が与えられる一方、自分たちの文化や記憶による支えで、入り込むことも可能だ。ボルヘスの短篇のように、「人知の及ばぬこと」として恐怖することもない。ちなみに多分人間は、無人の自然の写真でも、恐怖しなかったりするし、それはそこに、人間がいることを知っているし想像できるからだろう。



ブッツァーティ『神を見た犬』を買った。