トーマス・アルフレッドソン裏切りのサーカス』見た。

スマイリーとピーターが、元警察官で養蜂を営む男をの元を訪れ仲間とし、その帰路の車内に、おそらく蜂であろう虫が紛れ込んでいる。ピーターたちがうざったさと少しの恐怖が入り混じった仕草で虫を手で払ったのち、スマイリーは、タイミングを見計らい窓を開け、難なく追い出してしまう。
回想の中で、コントロールは、部下の、疑わしい報告を聴いて激昂し、「出ていけ!」と怒鳴り散らす。
英国に帰国し教師となったジム・プリドーは、授業中、暖炉から飛び込んだせいで炎をまとった鳥(鳩か、梟か)を、生徒たちかわめく中、躊躇なくはたき落とし殺してしまう。
密閉され、自由な出入りの困難な空間に、異物が入り込む。その時、人はどうするか。ある者は、強制排除を行い、またある者はその場で異質なものを抹殺してしまうだろう。そして、無理やりに、ではなく、受け容れるのと同じくらい自然に、外へと追いやってしまうやり方も存在する。
この映画において、何度も繰り返し登場するモチーフが、この、ある空間への侵入と脱出、視点を変えれば受容と排除、である。その「空間」とは、「家」であり「諜報機関」であり、「国家」のことだ。
スマイリーは、諜報員という職業でありながら、その自宅には、なぜか侵入者が簡単に発生してしまう。それは命からがら英国に舞い戻ってきたリッキー・ターであり、“テイラー”ジム・ヘイドン、でもある。
その時彼は、決して声高に出ていくことを強制などしたりはしない。極めて落ち着いた、冷静な態度で相対する。
思えば、スマイリーは、出て行かせること、を生業の一つとしていた。亡命の斡旋、である。
いくら追い出そうとしても、出て行かせようとしても、追い出せない事態というものがある。まず、その存在を、侵入者として認識できない時。そして、いくら説得しようとなだめすかそうと、決して屈しない時。前者が、今回の「もぐら」であり、スマイリーは、この見えない侵入者を、一旦(密会の場に)「招き入れる」(そのために偽の情報を流す)ことで、あぶり出した(侵入を試みさせた、「気付いていた」のだ)。後者は“狂信者”カーラであり、だからこそ彼は最大級に手ごわい相手として、この作品に君臨している。

にしても、トム・ハーディの繊細さよ…。役者の力がばちばちの作品だった。