直木三十五『日本剣豪列伝』を読んでいる。これを、おもしろい、と思うのは、自分が、時代小説を、ほとんど、読んでいないからなんだろうか。例えば山岡鉄舟とかは、いくつも書かれてそうではある。
柳生宗厳と松田織部之助のエピソード。お互い復讐のしあいで、最後には織部之助が殺されてしまう。なんというか、理解できる、ようで、できない、ようで…と、堂々巡りする感じ。論理的、ではなくしかし、ここには私の知らない論理が確かに存在するようである、から、論理的なのかもしれない、一見、感情的であるようにも思えるけど、そこには、感情的な考え方とは異なるものが、存在していてだから、土地を失う発端となった織部之助をすぐには殺さない、でも、宗厳は、自分が生きてる間に土地を取り戻せなかったら織部之助の首を自分の墓前にもってこい、と息子たちに命じるし、息子たちもすぐには殺さず(復讐せず)、土地を取り戻してから殺す…と考えたら、別に非論理的ではない。いや、最初から、非論理的ではないといってるから、まんまなんだけど。
失ったものと、そのものを失った原因を、わけている。失ったもの(土地)を、失ったままで、原因(織部之助)を、処理しようとしても、意味がない…というか、戻ってこない。なぜなら、この場合の原因は、失ったものを取り戻す役には立たないから(織部之助のしたことは、柳生の隠し田の存在を上に密告したことであり、例えば自分のものにした、とか、そういうことではないから)。それにすごく単純に言えば、原因よりも、失ったものの方が大事だ(多分これは、原因より結果が大事、とかとは違う。失ったものは、原因とか結果以前(もしくはその外)にあるものだと思うから)。まずどちらに気持ちや思考や行動やお金やら、を傾けるべきかといえば、失ったもの、だろうと思う(それを取り戻そうとしたり、それが無理なものなら、原因のことを考えるよりよっぽど、失ったものを考える方が良い…というか、善い、気がするのだけど…でもここで原因に手を出そうとするのはわかる。失ったものは無いけど、原因はある、から…近いから)。
…だから、最初から、これらは別のものなんだけど(柳生の人々が分けなくとも)、とかく人は、一緒にしたがる(これが多分感情なのかもしれない)。そしてその上で、失ったものとは関係ない次元で(まるで非論理的に)、原因を排除しようとする。
原因と失ったものを、同じ次元で考えると、失ったものの方が大事だし、だから、失ったものの方をまずなんらかにしてから(それは取り戻すことかもしれないし、考え続けてあげることかもしれない)、原因に手を出すべきなんだろう。失ったものをなんらかにできないなら、そのなんらかにするための何かをし続けていくべきで、そうなると、原因は関係なくなっていく。でも、原因は、(体感)距離的(感情的)にも近いので、ついそっちに意識がいってしまう。