ロベルト・ムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』の「愛の完成」を読み始める。読んでるうちに、何を読んでるか、何が語られてるのか、わからなくなってくる。思索の描写がものすごい重層的というか。比喩表現、たとえが多く登場するんだけど、それがまた、何か説明を要するような、すぱっと言い切るための、つまり、わかりやすくするための表現ではなく、また「違った」イメージを与えるために、広げるというか深くするというか、そんなんじゃなく、…複雑、とかでもなく…語られてるものと、語るもののあいだをぬけていくような、というか…読んでるうちに、小説の表面から離れていってしまうような、語られてるのは確かにその小説の内容であったりするのに、そうでないように感じる、…そうさせる表現。
《自分の心を誘うのはあの男ではなくて、ここに立って待っているということ、自分であるという喜び、人間として、生命なき物たちな間で傷口のようにばっくりと開いて目覚めてあるという、この細く心を咬む、はげしい、すてばちの喜びにほかならぬことを。》p47
《物音ひとつせぬ静けさの中で、一瞬、目に見える風景のすべてが、どこかほかの風景の中に、こだまのごとくくりかえされるかに思われた。》p55
《彼女の人生は幾百もの可能性へわかれて、前後して置かれたさまざまな生の書割りのように左右へ引かれ、その間にひらいた白い、空虚な、落着かぬ空間の中に、教師たちの姿が暗い定かならぬ物体と浮かびあがり、何かを求めながら沈んできて彼女を見つめ、彼女の席の上に重くのしかかった。》p62
《男がそんなふうにしゃべりながらそばを歩いていると、男の言葉があっけらかんとした空間の中に流れこんで、その空間をひとりで満たしていくのが彼女には感じとれた。》p67
《彼女はいきなり、からだのどこか感覚のない部分だけで、たとえば頭髪とか爪とか、あるいは自分のからだが角質からできているかのように、これらの人間たちのあいだにいる気がした。》p71