ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』を読み終えた。
《客が帰ったあと、兄弟は一つの部屋に二人きりで残った。二人きりというのは、肖像や神々や聖者などを勘定に入れない場合の話である。トゥンダは静かに聴き耳を立てているこうした者たちに慣れていなかった。わたしに関して言えば、安楽椅子のうしろに立って、わたしの髪の毛を数える従僕たちなど、全く意に介さない。》p127
ここはいいんだけど、
《ぼくが思うに、人間はまだ両足で大地に立っている。下半身はすべて大地のものだ。しかし手から上はもう大地の大気圏の中に生きてはいないのだ。誰でも二つの半身から成り立っている。それぞれの上半身は下半身を恥じている。誰もが足より手をより高等な体の部分だと見なしている。人間には二つの生活がある。食べたり、飲んだり、女を愛したりするのは下の下等な部分が行い、彼らの職務は上の部分が行うのだ。》p136-137
《兄はぼくが職業もなく、金儲けもしていないので、道徳的にはぼくには生きる資格がないと、多分そう言うだろう。ぼくは兄に食べさせてもらっているので、ぼく自身、内心うしろめたさを感じている。それはそれとして、ぼくは世の中に対して腹を立てており、その代価を支払ってくれない限り、この世で職業を持つことができないだろう。ぼくは世間一般のものの考え方には全く合わないのだ。》p138-139
これら二つの部分で、最後の文章はいらない気がする。いらないというか、違う書き方のほうがいい、というか。
《彼女はゆっくりと手袋を脱いだ。手袋はベッドの掛け蒲団の上に落ちた。軽くそよ風に吹かれてそっと置かれるように。中味のない、だらりとした状態で横たわっていたが、どこか柔らかい、生きた奇妙な動物のようだった。》p161
これも、「生きた奇妙な動物」と言わないで、「生きた奇妙な動物のような」描写を、手袋に費やすほうがいいと思う。
…となんか文句のような感じになってしまっている、けど、おもしろかった。でも、なんか、ふみこみがたらない感じが。だから興奮もあまりしなかったのかもしれない。もちろん、はっとする表現はたくさんある。
《ずいぶんさまよい続けた手紙だった。三ヵ月もかかっていた。途中で中味が増したようだった。》p208
《なぜなら、われわれが埋葬されていようが、はたまた達者でいようが、どうでもいいことなのだから。われわれはこの世界になじめぬ他所者なのだ。われわれは死者の国からきたのだ》p191ここはあんまりかもしれない。
《ある人間がとっくにその階級、その身分、その範疇から離脱してしまっているのに、礼儀作法の方はまだそのことを何も知らないのだ。》p187
《これほど大きな家を彼は見たことがなかった。彼には実際以上に大きく思われた。それというのも、とても全体はわからなかったし、いつきても家の一部しか、ほんの断片しか見ることができなかったからである。彼はこの家をほんの僅かしか知らなかった。》p195