深沢七郎楢山節考』を、「東京のプリンスたち」を読み返したらおもしろくて、他の読んだことないのも読む。おもしろかったので『みちのくの人形たち』を読み始める。おもしろい。いかがわしさ。特に『みちのくの人形たち』の短篇は、風習・俗習のようなものが描かれている。そういう風習的なもんの性質なのかもしらんが、中庸、というか過剰さもなく、だからといって埋没するような目立たなさもない(この目立たなさも要するに過剰さだ)。どんなに過激なものに、それに触れたことや見たことがない人が触れても、それがその土地や人々にとって過激ではなく(だからといって普通でもないのだけど…在るものである、といった感じ)だからそういう風なうけいれ方をしていれば、それに中和されて、風習を殊更過剰に見ることなく、その人の中でも中庸になる。たとえば、人を殺す祭があって、見た時に、えーっと思っても、「ここでは5年に一回こういうことをするんです。凶作の年にもやります」と言われてしまいしかもみんな黙って見てるだけだったら、あっそーなんですかぁ…と思ってそのまま、かしこまって見ている、というような感じ。実際には、そんなことはないんだけど…って、実際にそんなことはないなんてわからなくて、実際に見たら、生命の尊さとかこうした風習の(隠された)意味とかを考えたり思ったり、感情的になり、何か重要な過去を思い出したり自分の心情を呼び起こしたりはせず、ただ見て、かわいそうだな、とか、内蔵がまるで液体のように外に流れ出しているな、とかしか思わないかもしれない。ともかく、奇習とか奇祭なんて呼ばれてるものは、その土地・人々の全体にとっては中庸なものであり(拒否反応を過剰に示したりする人も、すでに中庸なものとして含まれてる。そしておそらく、そういった反応を示す人にも、自分が中庸の範囲にいるということがわかっている)、それを見つめる語り手も、中庸にとらえる。だから、殺人や近親相姦が文学的事件として(ミステリーとしてもホラーとしても)起こらないし、起こったとしてもそこに過剰さはない。結局こんな風になって、登場する人間やもののおもしろさがわかんなくなってる。
で、『みちのくの人形たち』を読み終えた。いやーすげー。こんなに読めて、こんなにおもしろい。「をんな曼陀羅」が一番好き、だけどこれは単に、好きな陰謀っぽさというか歪んだ物事の把握みたいな要素があるからかも。でもこの絵画のあらわれ方は…。にしても、これらには意味がない。つくづく、書かれているものそれ自体の面白さしかないなーというかそういっておくしかないという…。『東京のプリンスたち』は《(…)何ものにもとらわれることのない人間の理想の生き方を、ロカビリーに熱狂する一群の青年たちの姿をかりて追求した小説》じゃないだろうし。無は暗くないしニヒリズムでもない。そしてあかるくもない、多分。ただ、無なだけだ。
あと、「秘戯」を読んで思い出したのが、中沢新一網野善彦について書いた本の中で、網野一家と一緒に、どこかの山に行った時、休憩と食事のために入ったお店で、深沢七郎の言葉で言えば、男の陽と女の陰がモチーフになった掛け軸や春画や木彫りの置物などが沢山飾ってあって、家族共々圧倒されてしまった(そして網野善彦が、それについて、日本の、なんというか、影の文化、みたいなものを見いだしていた)というエピソードで、こういうもの、あっと思ってその前にただひたすら立ちつくすしかない、というようなものは、なんというか、性的なものや死にまつわるもの、だけなんだろうか、と思ったけどそうではなくて、「和人のユーカラ」のたんぽぽが一面に生えているところなんかもそうなんだろう。あと、前に、日光に行った時に入った土産屋の奥にあった、色んな大きさの男根の石像がやたらめったら置いてあった様子に、呆然としたのを思い出した。