DVDで『エネミー・オブ・アメリカ』を見た。
ワールド・オブ・ライズ』でも、監視映像がくみこまれていたけれど、あれは中東が舞台だったため、使われているのは衛星からの映像くらいだった(あとは、写真が重要であったけど…これは少し違うような気が)。でもこの映画は、都市が舞台なので、衛星だけでなく監視カメラ、盗撮、そして、そういった映像を用いて作り上げられた立体の復元(?)映像(『デジャヴ』だよなぁ…)、といった様々な次元(といっていいかわからないけど…様々な位相というか)の映像が次々と、くみあわされていく。さらには、建物の構造から作り出した立体の仮想構造図まで(これは、主人公の位置を示すことによって、通用する「映像」となる…???)。
そして音に関しても、電話の傍受された音声、室内の盗聴、実際に人間が持ったマイクが拾った会話、がくみあわされる。
これら映像・音の複雑さ、というか多層性があるからおもしろい。『ワールド・オブ・ライズ』(何度も引き合いに出して悪いけど)にはそれがない…ように思ったから、監視映像的おもしろさはなかった(でも、それが目的じゃないだろうけど…)。
こういった、多層的映像は、もちろん、作中の次元、で撮られている。当たり前っちゃあ当たり前だけど。
でも同時に、映画、というものは多層的なものである、と考えることができると思う、多分。この『エネミー・オブ・アメリカ』も、様々な種類のカメラ、撮影機材で撮られているだろうし。
強引だけど、多層的映像=映画と考えてみる。すると、盗撮や監視の主体であるNSAは、撮影者=映画の制作者であり、また観客でもある(技術者=カメラマンであるジャック・ブラックたちや、実働部隊=現場のディレクターや小道具・大道具である元海兵隊員たち)。NSAは、制作者として、映像を撮影し音声を録音し、そこから必要な映像・音声を取り出して構成し(つまり編集)、それを見て重要な要素をよみとる。そして、その映像の次に起こること(ここでは、ロバートや「ブリル」の行く先や考え)を予想する。まぁ、この予想(映像をよみとくこと)は、撮影や編集、そして観賞と同時に行われるから意識されないだろうけど。
なんでこんなことを思ったのか。
最後の方のシーンで、ロバートは、マフィアのレストランまでNSAとともに行き賭けに出る。それは、そのレストランを、FBIが直接監視していることを利用した賭けだ。そしてFBIの存在をロバートから暗に知らされた「ブリル」は、FBIを利用しようとする。わざと咳込み吐くふりをして、NSAの監視車の外に出る。そこで、FBIに、撃たれて血が出ている手と、来ていた警官の制服(おそらく偽物。でなくとも本人は警察官ではないし)を見せつける。FBIは、雨のなか、車から出て来た人間の様子から、彼に起こったことを再構成する。警官が襲われ、出血するような怪我をしている、と。そうして、いわば「ブリル」はFBIをだます。
ここでは起こったのは、「ブリル」(そしてロバート)という、撮られる側、被撮影者が、FBIという「観客」に、偽の情報・架空のストーリーを与え、働きかけて、自分たちの都合のいいように彼らを動かした、ということだ。
それが、映画の構造のように思われた。我々観客もまた、スクリーンや画面に、怪我をした警官が映しだされたら、その警官の身に「何か」が起こったんだ、と類推するだろう。
ここでのFBIは、NSAのように映像を介した間接的な監視ではなく、直接見ることによる監視を行なっている。撮影(制作)は行なっていない、といえるから(いやビデオはまわしてるだろうけど)、彼らは、観賞者としての性質に特化している、と思う。
さらにNSAは、ロバートや「ブリル」たちによって、監視者・制作者の立場から見られる立場=俳優の次元に引きずり下ろされ、状況を把握できない状態にさせられる。まるで、一つの脚本がなく、ある一定の情報しか知らされずに、演技させられているような(だからこそ、相手(この場合はマフィア)が何を言い出すか(わかっているつもりで本当は)わからない)。
さらに追記すれば、後半で、NSA側を、逆に盗撮や盗聴することは、優位にあるものとしての制作者側へと歯向かい、立場を逆転させようとする試みでもあったように思う。
衛星からの映像は真上からしか撮影されない(これを利用して描いた「ブリル」の用心深さを示すシーンがまたおもしろい…「こいつ上を向かない」「賢いな」って…。あとまた思い出したのは、『ワールド・オブ・ライズ』。上空からの衛星による監視を撹乱させるため、何台かの車がぐるぐる回って砂埃を起こし、どの車にディカプリオが乗ったかわからなくする…といいやつ。おもしろかった)。そして、人間は、自分たちの目の高さにあるものしか見ることができない。これら2つとは違う視点からの映像が、『エネミー・オブ・アメリカ』にはある。それは、表現するなら、斜め上から見下ろすような映像だ。そして、対象を中心として、円を描くような動きをする。ぐるーっとまわりながら撮る感じ。ホテルの屋上のシーンや、ロバートと「ブリル」が2人で逃亡しながら線路へと近付いていくシーンなどに、それがある。これらの共通点は、ヘリコプターの存在だろう。すごく上空の遠くからでもなく、至近距離でもない、微妙な高さ=距離を、スピードを保ちながら動き回ることができるのはヘリコプターだ。しかし、ここでは、決してヘリコプターから見られているような描き方はしていない。なぜなら、その斜め上からの映像に、ヘリコプターが映りこんでいるからである。ここでのヘリコプターは、斜め上からの映像を挿入するための、なんというか、支えとしてあらわれてるんじゃないか。ヘリコプターが来てから、その斜め上の、いわば中間の視点が起こったのではなくて、その中間の視点からの映像を加えたくて、ヘリコプターを登場させた…(いやまぁ、ヘリがいないとこでもあったと思うけどさ…だからこそ、まず中間の映像ありき、だと考えた)?その中間の映像は、衛星から撮影できないものだった…んだけど、『デジャヴ』では、それが可能になっている(だよな?でも、監視カメラの映像も利用してたけど、…いやしてないか。多分)。最新鋭の監視衛星は、中間の、中空の映像すら撮影することが可能になった、ということになっている、みたいだ。
じゃあなんで、中間の視点を加えたいのか、といえば…好きだから…?見ていて快感だから…?とか…トニー・スコットの映画をもっと見る必要がある。
本筋のストーリーに奉仕するでもなく(存在することで、物語ではなく映画それ自体には奉仕してるかもしれないが)、不必要に傷ついたり死んだりすることなく、犬や猫が出てくるのはいいなぁと思う。あと雁?鴨?だっけ…忘れた。あの野鳥を撮影する機材も、NSA=殺人者を、撮影してしまうことで監視者から被監視者にしてしまった、ということだろう。
撮影(監視)とは、常に、撮る側と撮られる側(見る側と見られる側)という区別を作り出し、前者に権力を与える行為である。それをひっくりかえすには、この関係を壊さなければならない。監視―被監視の関係を逆転させる、とか…第三者を介入させ、監視者・被監視者ともども同じ次元に存在させる(両者ともに被監視者にさせる、とか…)など。
そしてラスト。監視が、一方的な権力の行使でなく、コミュニケーションの手段となったのが、なんかよかった。でも、「国家保安」のため、という目的自体は残ったままだ…それにロバートは、もうすでに、自分たちが置かれている世界が、ある一部の組織によって自由に操作でき、自分の身分など簡単になくなってしまう、ということを知ってしまった。というか、そのようにして世界は在り続ける。その世界で、ロバート(や他の人間)は、どう生きていけばいいのか。「ブリル」のように、あらゆるものを遮断し生きていけばいいのか。…結局バッドエンドのようにも思える。
あとよかったシーン。一番最後の、ジャック・ブラックが取り調べをうけている部屋のガラス(多分マジックミラー?)に、見ている人間が映って重なるところ。家政婦の車の中で、子供からゲーム機をうけとるシーン。エレベーターの中で、ポテチをぶちまけられるとこ。最後の銃撃戦で、画面が震える感じ(!!)…