クリント・イーストウッドグラン・トリノ』を渋谷で見た。

光と影の美しさ。室内での、ウォルト・コワルスキーと、それに対比されるようなつるっとした人形のような神父の顔や、彼らの身体(ウォルトの節くれ立った傷だらけの手の甲)に、まだらにあたる光、影。最後の、敵地に攻め入る時のウォルトの顔を暗闇に浮かび上がらせる光。それらの使われ方の正しさ。

そして、喧嘩や乱闘、もみあいや敵を殴るシーン(ゆれ)や、車の中から外を見る風景(ウォルトが見る時(カーブミラー)、彼が庭先にいる時、モン族のチンピラに見られている時の移動)、人物がドアを挟んだ時、ウォルトが咳き込んだ時のある症状の現れ方、そしてもちろん人物の会話の時などの、カメラの動き方が、どの時も、正しい撮り方しかない映画。

妻の葬儀(孫の言う「タマ」は単なる愚かさの描写としてさらっと流してしまうけど、それが「精霊」の言い換えであることもそうだし、ウォルトの「dick」と合わせて(そして彼の普段の会話も)考えると、ウォルト的な考え方が進んであの孫のような人間が生まれてきたんじゃないだろうか…それに対してそうしたことが言えないタオが、ハイブリッドとして後継者となる)の後、自宅で催されたパーティというか食事会?が終わり、出て行く人々からカットが変わり、隣の家に引っ越してきたタオとスー達の家族の元を訪れるため家に入って行く人々を映し、さらに、内部で行われているのは赤ん坊の誕生もしくは健康を祈る儀式である、といったように、ここに二つの流れの始まりがある。

前者はその後、庭先のベンチに腰掛け傍らの犬を可愛がりながらビールを飲むこと、きれいに整えられた芝生と非電動の芝刈機、工具と機械修理(モン族の若者も、そしておそらくウォルトの孫も、誰も直さない洗濯機の足のちょっとした整備)、一度も映されないビーフジャーキー(同じくほとんど映されないパーティでの食事)、ポーランド系移民のウォルトとイタリア系の床屋、アイルランド系の現場監督および酒場の連中との会話(黒人の若者とのからみ)、神父(と説教)、そして執拗に画面の隅ではためき続ける星条旗、(フォードの)グラン・トリノになる。

後者は、揺り椅子に腰掛ける老婆、荒れ放題の芝生と花束や植物の植木鉢、タオの(「女の仕事」としてとらえられる)庭いじり(土に纏わる憂鬱さ!)、良い匂いの鶏の丸焼きやチキン団子(花と食べ物は、マジックハンドどボタンのでかい電話機とパンフレットとの、魅力の有無の差があるプレゼント、という観点から相対してるとも言える)、最後にウォルトの手からずり落ちることとなるガラスのコップに入った米のお酒、占い師(の心を読むこと)、教会でタオとスーが着る民族衣装(今気付いたけど、ウォルトがスーツを直すのって…髭を剃ったのとあわせると、旅立ちの準備だったのか)、目を合わせないモン族の習慣、といったものになる。

まぁ、前者の代表としてのウォルトが、後者をとりあえず代表するタオに、自らの価値観を教え(女を誘う、仕事をする、車を持つ、大人の男の会話をする、真正面から相手を見つめる)、またウォルトも、今度は逆に彼らの価値観を不器用ながら受け入れる、そして老人から若者へ(グラン・トリノが)受け継がれる…といった感じになる。

まぁそれはそうだけど、それはそれとして、今自分でやったこの二つの流れの分け方には嘘が紛れ詐術が働いている、というか、この安易な対比にすべてが収まるわけではない。

例えば神父。彼が物語の最初と最後に説教をすること(まぁこれは教会に始まり教会に終わるということでもあるけど)、またそこで語られる内容の変化ももちろんだし(最後のそれには笑いすらある)、彼が冒頭に投げ掛けた「生と死」、妻の遺言として勧める「懺悔」、そして「償い」について、ウォルトは対話(時にはすげなく追い返し)を繰り返しながら、徐々にそれらについての自らの考えを開示していく。しかしそれは、元々隠し持っていた考えを外に表してゆくというよりむしろ、神父とのやりとりの中で形作られている(気付かされれ)ように見える。

最初は何も知らない「童貞(virgin)」扱いだった神父は「弾丸をこめて」やって来る事をしだし段々と存在感を強くし、事件が終わる度に現れウォルトに意見し(まるで彼がウォルトの中の世間的常識の象徴のように)、そして最後には、彼はまるで沈黙するウォルトの代わりのように、血なまぐさい考えを語り(そしてウォルトより先にビールを飲み)、にわかに不穏さを漂わせる。その時の顔が、まるで人形のようにつるっとして、不気味ですらある。

そして、彼がウォルトより先にスモーキーたちの家に向かい、警官たちにつかまえられてタクシーに乗せられつれていかれるシーンはさらに不穏である。

また、懺悔室で肝心なことを語らなかった(それで終わり?と神父に言われてしまった)ウォルトは、まるでその代わりであるかのように、地下室への入口の網目のある扉(視覚的にも露骨なまでに懺悔室である)を間にしてタオに怒りと後悔をあらわにする。

で、対比に収まらないこと、そして神父からのつながりで言うなら宗教(カトリック)に関わること(ルター派へのコメントもあったけど)として、傷(と倒れ方…足の揃え方の半端なさ…)がある。

タオの首と顔の傷、スーの顔の傷(ここはかわいそうで泣いた…)と、モン族の家族が(精神的にも肉体的にも)傷つけられることに呼応するようなウォルトの吐血(内部の傷と思えば?それに手に吐いた際手の傷のように見えた)およびスーを見た後ガラスに手を突っ込んで自ら手の甲につけた傷(傷の転移?)。まぁ聖痕、なんだろうけども…残酷だ。

必ずスネアドラムが響く(軍隊的な?)中、銃を構える。そして指で作る銃が何度も登場すること。懐に手を入れる仕草。これら銃に関わる振る舞いは、どれも格好良いし、同時にいやな感じを常に映画に充満させている。

(床屋との、スーとの「猫」についてなどの)人種ネタ、タオのヘタレ具合やだめな感じ(白人の、黒人の、モン族の若者にまつわるだめな感じ…)、などなどで思いっきり笑わせ、鏡に向き合っての「ハッピー・バースデー」とか最後のタオの睨みつける視線とかでなんかひっかかる感じにさせ、虐げられるタオやスーたちなどなどによって切なくさせ、モン族のギャングスタたちへ憎しみを募らせられ、ウォルトの戦いと最期に悲しみ感動させられる、というのが決して大事にならずに描かれる、というすごさすばらしさがあり、立ち姿や暴力をふるう姿がびりびりかっこいいイーストウッドが見れ、かすれて静かに響く歌声すら聴ける(泣ける)、という最良の映画。


三浦しをん『風が強く吹いている』を読み終えた。感動。ぼろいアパート・下宿・寮での共同生活ものが好きだという事に改めて気づいた。箱根駅伝のとこでは感動し続けた。あと、やっぱ走れないやつらのエピソードのほうがぐっときた。