高橋洋『映画の魔』読む。
《そして不思議なことに、映画という道具は、それが表現形式としての技術的物理的な限界に直面した時、道具として虐げられた存在であることをやめ、突然、映画それ自体としての存在を主張し、輝き始める。「それはもはや映画というしかない」とはこのような瞬間に口にされる賛辞なのであり、映画を道具として用いることには、このようなダイナミックな矛盾がはらまれているのだ。》(p93)
《そこでラカンが例に挙げているのは、恋をして、その恋人と一体化したいと望んだ男が、恋人を食べちゃうと。筋は通ってるんですよね。大きく間違えてるんだけども、筋は通っている。で、そういうとんでもない論理が、勝手に一人歩きを始めている。人間が主体的に選んだものではなくて、勝手に向こうからぶっとんできた論理なんですよね。》(p99)
黒沢清が、幽霊を突き詰めて考えていくのと同じ思考がここにある。ただその徹底さが尋常ではない。というのも、映画というものが、それを要求するからだ…というか、要求に応えてしまう人間がいるからか…。
この本は、めちゃめちゃおもしろいのだけど、あまりにわかりすぎてしまって少々どうかと自分で思う。保坂和志の小説論を読むのと同じ感じ。だから逆に読まなくていいのか…?…いや読まなきゃいけないんだけど。
で、チェーホフ『子どもたち・曠野 他十篇』読む。これはなんなんだろうか…これについて系統だって語ることができるのか…いやできたとしても、それがこの小説の鮮烈さに優ることなどありはしないという気が無性にする。
ワタリウム美術館ジョン・ルーリー展 ドローイング You Are Here」見た。偶然なんとなく。
半身しか描かれない人物たちは、裂け目からその瞬間だけ姿を現して次の瞬間には消えてしまうような気がした。というか、すでに消えかかったものとしてしか存在していない。
だけども、例えば植木と花や、風景や、本なんかはしっかりとかかれて存在している。いささかうますぎなくらいに。色使いも鮮やかだ。
あとは、境目というか柵?のようなもの。
人体改造(「Bear Arms」)・(被害)妄想・不安・支離滅裂な言動・暴力衝動などといった精神異常的なモチーフが(特にタイトルに)…まぁ…。中原昌也のコメントがあったけど、中原昌也のドローイングの方が好きだなぁ。なんかワタリウムで、ああいうテイストの展覧会で…ってのがなんか恥ずかしかった。
で、ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』(ル・クレジオのこんな短篇集の文庫があったんか!)と石黒正数『響子と父さん』買って『響子と父さん』読み終える。
意味のないこと・無駄なこと、に、意味を付与すること。それは妄想だったり深読みだったり推理だったり思い込みだったり決めつけだったり(「余計な」ことを言うことだったり…)するのだけど、石黒正数的人物は、そうした行為によって日常を読み替えていく。「日常の謎」だったり、終わりのほろ苦さだったりは、米澤穂信に通ずるなと今ちょっと思った。
あとは東村アキコ海月姫』(つくづく思うのは、東村アキコの漫画の登場人物は、何かが決定する(決定するように見える)瞬間からよく走って逃げるなー、ということ…)とか楳図かずおわたしは真悟』(これこそまさに「魔」を顕してしまった作品だろ…)を読んだりした。
ギー・ドゥボールほしいんだけど売ってない。
カリフォルニアバーガーはそれほどでもない。なんかハワイと変わらんような気が…。テキサスが一番好きだった。