ルパート・ワイアット猿の惑星:創世記』見た。

ってまず、フォーゼの衝撃が…。いやこうなることは無論最初からわかってたわけで、しかし、その「わかってる」感じが、こうも連打されると…ぐっと来ざるをえない。
この後に、今度は、すれ違いや決別の危機があり、しかし、それを乗り越えてゆく、という展開があるんだろうな。にしても弦太郎はいいやつすぎる。
で、『猿の惑星:創世記』の話。
冒頭の、美しく目に迫って来る森林の風景を映し出すカメラワークからもわかるように、猿たちの動きを追っていくと必然的に、(カメラの、または観客の)視線は、通常の人間たち(のシーン)のものとは異なる(異なる「瞳」を持つこと)。ゴールデンゲートブリッジの突破において、視線は多重化し(方法も同じく…というのは、正規の方法から脱却する、ということ)、1つに統合することはできない。それゆえ、追跡者たちは、目標を見失ってしまう。そして、登場人物たちもまた、そうした視線にさらされることで、彼ら自身のそれもまた変化する。並木から異常に葉が落ちてきたり、研究所の無残な姿にあっけにとられた時、人間たちは、上を見る。そこはすでに、普段の(生活・移動)空間とは異なるものに属している。いかに我々が、限定された動き、視点でものを考えているのか。
つまり、制限、制約から解き放たれること(「脱獄」すること)。それは種の壁も越える。それは、壁の自明性を覆すこととも繋がる。
仮に、このプリクエールに続編があるとして…。
人類の共存、既存の社会で個として認められることを目指すシーザー。対して、人間へ憎しみを持ち(実験動物としての来歴、目の傷は、そのままその憎しみの理由を簡潔に示している)、猿だけの世界を目論むコバ(彼がアルファベットを書いたのも、今にして思えば計算だったかもしれない)。一方、ウィルスによって壊滅状態の、人間の内部にも対立が。猿への恐怖を軸に、敵対の姿勢を崩さない人々。そして、今はそんなことをいっている場合ではなく(種として滅亡の危機に瀕しているのだから…まぁだからこそ目先の敵にかまけてしまうのだけれど)なんとか、Apeたちとわかりあおうとする者たち。その中には当然ウィルもいる。ウィルとシーザーは、互いに目指すものは同じなのだが、(今回の映画でもはっきりしたように)その相手に対しての目線、それによる立ち位置(保護するものとされる者、という関係、と、互いに独立した者同士の関係)の違いによって、すれ違い続ける。しかし、それでも、どうにか分かり合えるかと思われた矢先、ウィルは、反対派によって殺される(しかしその裏には、コバがいて…とか)。そのことによって、人間への憎悪を新たにしたシーザーによって、全面戦争が始まり…みたいな。

ジェームズ・フランコ、がんばってた。あの役は難しいよ。そして(無理やりな)ヒロインは、『スラムドッグ$ミリオネア』の姉ちゃんやないかい。良いねぇ。

輪るピングドラム』、今週はぶっ飛びすぎてて、爆笑、のち、すべての少年少女たちの問題系の根本は、親(の世代)であるという展開に戦慄と恐怖。

神田の古本まつりに行った。しかし、人が多い所に行っても、というかこういうみんなに同じような目的を持つ人たちがわんさかいる場所に行くと、ストレスが…。なぜみなあんな感じなのか。東京のせいなのか。
以下買ったもの。どれもちょいと読み始める。
佐々木正人『レイアウトの法則 アートとアフォーダンス
金井美恵子『ページをめくる指』(絵本についての本。今の興味にどんぴしゃな内容なので買ってしまった。些か納得のできない不気味さを持つモーリス・センダックについて。凡百の絵本、児童書とは根本的に異なる書き方、教訓めいたものや、ほっこり物語ではない、描く対象、――彼女の場合は動物たち――、の動きや魅力を観察し、描くことで、作品を開始させたビアトリクス・ポターについて。また、絵本というものが、再読を誘うものであるからして、金井さんにぴったりっす)
マサオ・ミヨシ、吉本光宏『抵抗の場へ あらゆる境界を越えるために マサオ・ミヨシ自らを語る』(こんな危険な書物が存在してよいのか。再びの衝撃を味わいながら再読したい)

UN-GO』ちらちら見てる。金田一じゃないけど、人物の入れ替わり、が、モチーフとして度々登場する。それは戦争を背景としている。面白さ的には普通。「もの売るってレベルじゃねえぞ」とか、はぁ、って感じ。またSchool Food Punishmentなんだけど、それはすごくかっこいいです。