デヴィッド・フィンチャードラゴン・タトゥーの女』見た。

言葉を用いずに、過去を語る方法。この映画では、写真、である。
1枚では意味をなさないが、その前後に連なるものを並べた時、そこには、被写体の動き、歴史、関係性が立ち上がる。それは、その写真に潜在的に含まれていた、隠されていた、事実、過去、――ヴァンゲル家の人々、ハリエットの恐怖の対象、マルティンとある女学生の関係――、を明らかにする。
しかし、そうして複数の写真たちの(または写真と現実の姿かたちの)連関を読み解くことなどそもそも可能なのか。映画内においても、現実世界においても、我々は、好き勝手に結果を導き出しているにすぎない。過去は、その1枚の写真の中で変えようのない形で凍結している(芸術作品としては、如何様にも読み替えていくことができるし、するべきだけれど)。それはヘンリックの兄、ハラルド(の撮影したアルバム)のように。
そうして、ミカエル=観客は、最後に、その勝手な推理にしっぺ返しをくらうことになる。写真と現実=過去と現在のイメージの繋がりなど、いくらでも偽装可能である、ということだ。
まーどうでもいいことなのだけれど、リズベットは犬のようだな。「殺していい?」なんて、飼い主に舌を出して聞いているようだった。
そして、この映画は、『ゲーム』『セブン』を思い起こさせるのだった。徹底的に揺らぎを内包していた『ゾディアック』とはまるで違う映画になっていた。自分でも言っていたけれど、雇われ監督、ということなのか。