西谷弘『真夏の方程式』見た。

杏演じる成実が海岸で、ウェットスーツを脱ぐと、日焼けした肌と、青いビキニが露わになり(海の青、タイトルロールのパンタグラフから爆ぜる火花の青…)、後ろ手で、濡れたポニーテールを畳んで海水を絞る、その一連の動きと、彼女が堤防沿いから坂道へ、自宅の旅館まで自転車で走り抜けるシーン、それらは、細かくカットを割ることなく、画面上に現れていて、それだけでこの映画の魅力的な要素の一つになっている。彼女は全編を通して魅力的なのだが。
向こう側を見ることができるのと同時に、前に立つ人間や事物を映り込ませる窓ガラスは、時間や空間を超えた結びつきを発生させるだろう。それは無論その両者が互いを認識しあうことは不可能なはずなのだがしかし、終盤において父と娘の、ガラス=マジックミラー越しの、ありえないがゆえに感動を呼び起こす交感が行われて、目撃者と被目撃者、という構造が崩れる。
いくつかの印象的なカットバックがある。それらは、事件の進行と捜査と推理を同時に描いていく効率の良さを狙ったもののことではない。ある1枚の写真や、あるブログのトップ画像を介することで、異なる時空間同士を、鮮やかなまでにぴったりと繋ぐそれである。それは、ある出来事によって、その人生を大きく狂わせながら、しかしいささかも後悔することなく余生を送ろうとしている1人の人物の手元に集まり、彼を癒す光となる、といういわく言い難い素晴らしさ。
冒頭の、歩道橋から下を通る線路に向けて、走り去る電車が起こす風によって揺らめきながら落下する赤い傘の動き、明らかにCGなのだけれど(そんなにはっきりと電車を避ける動きが自然と起こるのはありえないだろうから)、しかしそうした技術を用いてまでこの瞬間を映像において実現させようとするのは、狂気的なまでに、画で「わからせよう」(言葉ではなく)という意思が感じさせられるし、それは、あの圧倒的な白竜の特殊メイクの精度の高さと確かに通じている。
あるシーンが、繰り返し語られ、思い起こされるのだけれど、その主体が異なるがゆえに、そのたびに違った物語をそこに存在させている。酔った父が帰宅し、自分と娘が似ていない、とつぶやいたある夜の出来事は、娘と、秘密を抱えた母、が感じた印象とは違い、それを口にした当の本人を、その回想の中で追っていくと、決して否定的なものではないことがわかるがゆえに、この家族のすれちがいと悲劇に思いを馳せずにはいられないだろう。
個人的な好みで『任侠ヘルパー』に軍配をあげたいのだが、そうだとしても、この映画は、魅惑的な画とシーンと編集に満ち溢れている。一つ、細部の描写で上げるとするなら、湯川が少年を黒いジャケットで覆い、形態の画面に映る海中の風景を見せようとする箇所だろう。これはまったく映画でしかない。大事なもの、美しいものは、暗がりの中でこそとらえることができるという隠喩。