リドリー・スコット『エイリアン:コヴェナント』


・作中人物のヘルメット問題、1人はタバコ吸いたいからで外して、もう1人はデヴィッドになんかそそのかされて外す、とかで全然成立しそうで被っててもいいんじゃないかと思うんだけど、多分ビジュアルの問題だけで被らせてないんじゃないか?
ただ単に(いや最も重要と言える)俳優の顔を見えにくくしたくないから、ってだけで被らせてないとしたら、やはり今作(というか新エイリアン2部作)における"顔"のモチーフが俄然強まってくる。むき出しの顔、フェイスハガー、頭部の巨大な彫像、(極めて映画的な)2人の人物が同じ顔を持ちどちらがどちらか判別がつかない、という状況、など。

あとゼノモーフはなぜガラスを叩き破ろうとするのか?という。
これと、デヴィッドとネオモーフが半透明のビニール(!)を間にして向かい合うシーンが、対になってるような気がする。顔を向かい合わせること、「出会いへの欲求」(!?)…。


・終盤の、タイトル通り(ま、一応コヴェナント号ってことなんで…)の宇宙船内のシーンのあっという間に終わる感じ。シャワーのとことか、普通もうちょっとしつこくなりそうなところを、めっちゃ短縮してる。


・考えててふと、もしかして近年のリドリーは、悪い天気(によって人間が苦しめられ、行動が制限されたり誘導されたりする)の映画ばっか撮ってないか、ということに思い至った。


・多分、なんだけど、作中の様々な人の死に方が、それぞれ1種類につき2回ずつ、繰り返されてるんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか。つまり死に方1種類につき常に2人死ぬってことです。顕著なのは、序盤のある人物の死に方と、その後別の人が死ぬ時に、ちゃんと(さっきの序盤の人と)同じ(死に方)ですよとわざわざ示すようなカット(わざわざ外に出てくる)が現れてあれ?と思い…。じゃあそれにどういった意図が?と考えても簡単にはわからないのですが…。