ベン・アフレック『AIR/エア』


顔のクロースアップ同士が過剰なまでに徹底的に繋がり続ける会話劇なんだけど、会話というよりつまりは、これもまた、アメリカ映画の典型の一つでもある、一方がもう一方を説き伏せる「説教」映画である、と言うしかない(「牧師さん」も登場するし)。つまり、会話の行き着く先は、説得する側とされる側に別れる地点しかない。
そして、それ自体はこの映画の疵にはならない。作中では、虚ろなイメージでも、ズレた冗談でもなく、まさにその説得、相手へ真摯に熱意を持って語りかけることが最終的に人を、事態を動かす、ということが描かれるわけだから、目指されるところだったろう。

でも、まず何がひっかかるのか、といえば、その説得に賭けられているものは何か、賭けている者(たち)は誰か、という話になる。
命を賭けろ、全てを失うかもしれない賭けでないと…とまでは言いたくないが、しかし、ことアメリカ映画においては、そういう苛烈さを求めてしまいたくなる。そしてその苛烈さが、失敗できないというスリルになる。
そういう意味で、今作は初めから、辛勝どころではない、大勝利があらかじめゴールに設定されており、それを観客も当然知っていて、結局のところそこに向かっていく。
それは、史実通りであれば、ということなんだけど、じゃあ仮に、フィクションの展開を持ち込んで、事実とは違う結末にしたとしても、結局のところ、大したことが起こるわけでもない、という気もする。

そしてその勝利とは、誰にとっての、なのかと言えば…。

なかばこの映画のために見たといっても過言じゃない『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』を見ながら感じていたことにも通ずるんだけど、ナイキ史上類のない契約だの、経済の複雑な問題だのと御託を並べて事態の異常さをあおったところで、この映画の中の言葉で言えば、結局のところ「太った白人男」たちのはしゃぎ合い、お遊びでしかないんじゃないのこれ?とまぁ、きつい言い方をしたくなる。作中の、機能性より見た目の美しさを選び取って作られたスポーツシューズなんてまさにその象徴となってしまってないか?もちろんその素晴らしさには観客も惹かれざるをえないわけだけど。まるで絶世の美を誇るヒロインのようにまんをじして登場するエアジョーダン1。

どうせ彼らは、ナイキをクビになっても、「口のうまさ」で転職できるし、健康のために自由に外を走り回ることができる(悪事を働いて逃げている、なんて思われることもないし思われるわけもない!)。ましてや、ナイキが潰れることもないわけで。そしてもちろんこの「太った」という形容詞は、実際の体型の話ではない。なので、体がshapeされてようがいまいが、ランニングしてようがしてまいが、関係ない。むしろそうして体型だの健康だのを気にする、気にすることができることもまた、「太っている」んだと言い切ろう(?)。

それに対して、まるでどっしりと構えていささかも揺るがないように見えてしまうデロリスが、もちろんそんな安定した立ち位置にいるわけもなくて(だからこそソニーの当然の訪問を警戒したり、彼を家の中にも入れず話し合いを庭で行ったりするのだろう)、息子のために、いやもしかしたら黒人社会のために、一世一代のはったり(あれは紛れもなくはったりでしょう、なんの前例も確証もないわけなんだから)をかまして、大企業を動かす様子には感銘を受ける方が、まだ健全だと言える。
とはいえ、この代償は、この後、絶対に成功せざるをえなくなった息子が引き受けることになってしまうわけなんだけど。

序盤は確かにかなりソダーバーグ作品のような質感があったけど、まぁそれはおいておくとして、この作品こそがアメリカ(的)映画だ、と言われているのは、あくまで個人的な嗜好でしかないけど、首肯しがたい(ドイツ訛りの英語、のくだりのナショナリスティックさがそうだと言えばそうかもしれないが…)。
ここには嘘がない。事実だから、という意味じゃない。その場をなんとか切り抜けようとするでまかせが、まるで真実であるかのように描いている。でまかせはでまかせ、ほらはほらであって、あからさまにそうであるからこそ、そういうものに信念や、場合によっては命すら賭けて、なんとか生き延びようとする、そうした行為が善であり希望であり未来である、それが(ここでは自分にとって、とするしかないけど)アメリカ(的)だということ。
とはいいつつも、社屋の中で1番寝やすいソファー、ささやかなバースデーカップケーキ、ミドルエイジクライシスの中年男のスケボー、とか(アメリカ映画としての)細部は輝いている、が、ただ輝いているだけ、とも言える。ベン・アフレックならその程度はできて当たり前じゃないですか?
でもラストの、オフィス全員での歓喜のシーンはいただけない、というか、あまりに無理矢理すぎる。あれをやるにはもうちょっと演出を入れて、もっと描写が必要だったろう。やりたいのもわかるけど。

それにしても今作のマットは、眉毛がやたらとつりあがっていて、ディカプリオが物真似するジャック・ニコルソンみたいになっていた。