クリント・イーストウッドミスティック・リバー』をDVDで見た。ほぼ必ず喋っている人が映る。画面が一つ一つ完成されている。暗闇が異様だった。室内で明かりが全然なくて表情だけが浮かび上がる(それすらもあいまいなシーンもあったけど)。子どもの頃のデイヴ、そしてデイヴの妻が、窓から外を見る、のは、決して幸福なものを見るわけではない。デイヴは、監禁された4日間で、デイヴという自分を殺し、別の少年として(吸血鬼となって)森を狼から逃げるため駆け抜ける。そして、現在になって、襲われている少年として、その殺したデイヴに再会し、彼を救うことで、過去の自分をも救う。…というまさに転移まるだし。その襲われている少年がデイヴにとっての対象a?で、デイヴは、ショーンやジミーにとっても、もし自分が連れ去られていた時の自分、であって、ということは、ジミーはその自分を殺害したということになるんだろうか?ブレンダンはジミーにとって、自分が殺したレイの代わりであって、だからこそ、そのレイが自分の娘と近付くのを恐れるんだけど、結局、ジミーが(ブレンダンとのつきあいを否定しながら強くはねのけることができなかった、という点において)招いてしまった他者(「ただのレイ」)の欲望としての自分への復讐は、同じ名を持つブレンダンの弟のレイによって為されてしまう。それも自分ではなく娘の殺害という形で。しかしそれも、ジミーが望んでいたことかもしれない、というのは、彼自身もいうようにジミーにとっては、何よりも恐怖だったのは、娘の存在だった(それはなぜか?1人でいるより娘といる方が孤独だったから…いや、死んだ妻の代わりとしての娘の存在自体がそもそも忌まわしいのか?)。ジミーは自分の欲望を他者の欲望として達成するわけで、で、弟レイは、自分の兄がとられるかもしれないからとりかえすという潜在的な恐怖を、アクシデントを利用して図らずも払拭し、そしてそれはさらに、同じ名の父の欲望でもあった(そしてジミーの欲望でも)。そういう意味で、ショーンが冒頭に予言のように発した「父(ジミー)の罪を神がさばいた」的な発言は正しかったし、それゆえに不気味だ。で、ジミーにとってのデイヴは、ショーンにとってのデイヴと同じであったわけで(過去の恐怖を思い出させる、自分の代わりの存在)、ジミーは、娘のためではなくむしろ自分のためにデイヴを殺害したのかもしれなく、それはショーンも望むものであって、だからショーンは、ジミーにデイヴ殺害を告白されても受け入れる(ある種もうどうでもいい的な、しかしさっぱりしたような感じ)。それは、自分がしたこと(自分がしたかったこと)かもしれないからだ。では、ラストのパレードでの(聖体受領?で始まりパレードで終わる物語)、デイヴの妻のセレステが、ジミーの妻を見つめる(それはジミーを探していて、図らずもその妻に視線が行き着いてしまう、という風に感じられる)のは、一体どういうことなのか。デイヴの復讐は、ジミーではなく、その妻を殺害することで達せられるということなのか。あの、いささか狂気じみた「king」の論理でジミーの行為を正当化というか擁護してしまっていたし。あそこほど気分が悪くなることは無かった。家族を守っていさえすれば、何やってもいいのかよ、って感じ。そしてそれを為すのは、セレステではなくその(デイヴの)息子なのかもしれない、というか、そうなったらおもしろいし、同時に救いもなにもない物語だ。でもショーンは、ジミーに、指による銃口を向ける。俺だけが知っている、ということなのか、それとも、ショーンがデイヴの(セレステの、息子の)欲望を為すのか。いやそれは違うような気がする。根源的出来事、根源的悲劇(それを決して見ることはできない)から派生的に発生する出来事は、すべて何かの(誰かの)代替として起こる。自分から話すことができなく、代わりに話してもらう人間が登場する。弟レイとショーンの妻。彼らは、死者なんだろうか。彼らは、彼ら自身の意志ではなく、外部の要因によって沈黙させられてしまう。前者は真逆の父の喪失で後者は子供の誕生(子供の誕生は同時に分裂であり死であるからわかり気がする)。