買ったもの。サイプレス上野、東京ブロンクス『LEGENDオブ日本語ラップ伝説』、渋谷直角『直角主義』。とくに後者は腹抱えて笑った。
今年最後の映画は何にしようか、色々探してみたのだけれど、東京で、というレベルじゃなく、公開自体が、どれも終わってしまっていて、やっぱりビックタイトルじゃない洋画は、早く見に行かないとだめだ。
で、グレン・フィカーラジョン・レクアラブ・アゲイン』見た。

2人の人間を、交互に切り返しつつ行われる長い会話。発話者の顔が常に映され、聴いている側は後ろ向きや横向き、そもそも映されていなかったりする。
向き合っていたとしても、その状態全体をとらえることはできない。というかそもそも、真正面から向き合う形、はこの映画にはほぼなかったと言えるのではないか。ベッドの上での、扉を挟んで離れて並ぶ椅子に座っての、カウンターでの、そして電話越し(!)での会話において、ある時は親密な空気感の共有されていること、またある時は気まずさやすれ違いの存在が、微妙なずれやゆがみを、2人の位置関係に与えている。
真直ぐお互いを見つめ合い、語り合うこと、ではなく(むしろそうした場面は、ある種の緊張感を持ったシーンであることが多い)、肝心な時にちらりと視線が交錯し合うとか、そんな他愛もなく、貴重な瞬間によって、(登場)人物たちの感情を描き、彼らのキャラクター造形を行っている。
それだけでは、アメリカ映画、ハリウッド映画にはならない。それまでの、奇妙なまでにゆるやかなそれ(主にスティーヴ・カレルジュリアン・ムーアの夫婦に起こるのだが…)とは違う、必要なアクシデント=事件は、映画の後半に差し掛かった部分に、カタルシスすら感じさせるほど明快に発生する(それは、この物語の発端であった、ライアン・ゴズリング=ジェイコブとスティーヴ・カレル=キャルの出会いの理由も明らかにしてしまうだろう!)。そしてラストの卒業式で、それを清算する。この構造がなくてはならない。
…のか?なんだかよくわからなくなってきた。
俳優はみなすばらしかったのだけれど、あえて挙げるなら、エマ・ストーン。まずこれは、彼女自身の力量、というわけはないのだけれど、演じているハンナの素性(というまでもないけれど)が判明する時、キャルの息子であるジョナ・ボボ(『ザスーラ』の弟)=ロビーの顔との共通点、そばかすにぐっときてしまった。
女性の魅力、を考えた時、まったく曖昧でぼやけているのだがしかし言ってしまうと、センス、というものがある。その言葉が指し示すものは何か?と言われてもなかなか説明できないのだけれど。言ってしまえば、ジェイコブには(彼が遊ぶ女性たちには)センスがない。彼が、ハンナのセンス、に負けてしまったのではないかと思う。ベッドでひとしきり面白話をしてしまうような、電話をしている彼にじゃれて来るような、(今思いついた言葉で言うと)(「目的」にたどり着こうとしない)「迂回」のセンス。それは、息子を慰めるボキャブラリーや、別れた夫への電話のかけ方からにじみ出ているように、きっとエミリーから受け継いだのではないか、というのが感じられるのが素晴らしい。
また、これも、直接関係ないのだけれど、ロビーが、ベビーシッターのジェシカ(アナリー・ティプトンという女優らしい。はじめて知ったけれど、良かった)に告白するくだりで、『緋文字』を使用していたのは、エマ・ストーンの『Easy A』へのオマージュなのか。しかも、ジュリアン・ムーアの口から、「(『緋文字』より)おもしろいものは他にあるのに(まだ取り上げてるのか)」と、授業批判の形で発せさせているのにもぐっときた(ジュリアン・ムーアは、『トワイライト』もけなさせられてた)。
あと、ジェイコブとハンナの(未遂に終わった)ベッドシーンや、更衣室やサウナのシーンでの、ライアン・ゴズリングの身体の描き方にあれな感じを受け取りました。
六本木で映画を見たときは、あおい書店の下のウェンディーズ(今はバーガーキング)で食事をしていた。今日は、青山に復活したウェンディーズに行こうとしたけれど、結局、めんどくさくなってバーガーキングに入ってしまった。
帰りは家まで歩いた。昨日買ったスカートの『ストーリー』を聴きながら。ここにきてベストなアルバムが飛び込んできた。良すぎる。ジャケットの尋常じゃないセンスの良さ。