バズ・ラーマン華麗なるギャツビー』見た。3D。

窓ガラス、から、外を見つめる、という行為は、直接外界と触れ合うことではなく、ある種の別世界として、鑑賞し愛でる対象として捉えるということだ。
ギャツビーは繰り返し、ニックを窓辺から、向こう岸の緑の光を桟橋から見つめることをやめ、手を伸ばし欲するものを捕らえようとする。しかし、ニックがトムの愛人宅の窓からニューヨークの街並みと暮らす人々を見て感慨にふけりつつ、その感情は、自らとの交わらなさから来るものであるとはかなくも感じていたように(そしてその時の、ある部屋から外を眺めている、恋する女性を映し、そこから一気にそのアパート全体、街全体をとらえるように引いていくカメラワークも表現しているように)、その感情は、おそらく、そこに距離が存在するからこそ過剰に発生するものなのだろう。だから、ギャツビーのある野望は、一方的な願望に過ぎないことが露呈していくことになる。
冒頭の、ブキャナン邸のでの、部屋中にたなびいて視界を遮りつつ幻想的な情景をつくる白いカーテンと開け放たれた窓、会食中にひっきりなしにかかって来る電話に出るトムと口論するデイジーの姿を、興味本位でジョーダンが見つめる窓、ギャツビー「城」で、寝室に不吉な色みの空と木の葉と風をもたらす窓、…そして、終盤のうだるような暑さのプラザホテルで、しつこく砕かれる巨大な氷(まさに砕け散ガラスのごとく、じゃないだろうか…)と、自分を救う車の姿をマートルが見つけることとなるカーガレージの2階の窓(そこは、あの享楽的な情事の行われる空間でもある)、そしてある破滅的な出来事が起こった時に刻まれるギャツビーの黄色い車のフロントガラスの大きなひび割れ。もしかしたら、あの悲劇のプールも。
バズ・ラーマンが監督する以上、あの感じにならざるを得ないんだから、そこをディスってもしょうがない、という気がするんだけれど、どうなんだろうか。
役者について。
ディカプリオ、好きなんだけど、ちょいちょいこっちが我に返ってしまうような演技だった。どこが、とはいえないんだけど、なんとなく。そして、トビー・マグワイアのきらきらっぷりは鮮やかで、この二人の共演、というだけでぐっとくるものがある。
キャリー・マリガンは、もはや天下の泣き女優であるな。
エリザベス・デビッキまじきれいっすね(そのまま)。
あと劇中で連呼される「ジェイ」に、俺のことだろとばかりにJAY-Z流れるのだけれど、エグゼクティブ・プロデューサーやられてまして、…誠に申し訳ない。