保坂和志『朝露通信』読み始めた。
《ひんぱんに氾濫した嘉彦兄の家のそばの川は富士川なのか、僕はそれを富士川だと思っていたのか。甲府盆地を流れる川はいずれすべて富士川となって逆三角形に子宮の形をした子宮口から出て山と山にはさまれてずうっと流れて、まだそこは山梨県だから山梨県は下にだらんと垂れてほとんど静岡県を左右に分断するほど静岡県は垂れる山梨県で細くなる、だからその川を富士川だと思っていたのが間違いではないとしても信濃川や淀川ではないという程度のことですでに論外だが、僕はひんぱんに氾濫したその川が何という川だとも考えたことがなかった。だからそれが富士川なのか富士川でないのか、富士川でなければ何という川なのか、何も考えたことがなく、川はただ川だった。》(p21)…なんという文章なんだ。
《学校にはいないタイプの、動きも表情も全部がイキイキしてる。池に次々輪ができる雨の波紋みたいだ。》(p40-41)
《僕は特別几帳面だったわけじゃない。僕は子どもらしく几帳面だった。(…)清人兄だって少し前までは細かい絵をびっしり描いた。修学旅行の大仏様の入口で僕にくれたプラモデルだってそうだった。それがあるとき、ほとんど突然、/「アーッ、メンドッくさい!」/と言って、頭の上に放り投げるようになる。》(p41)
《妹が生まれると母の実家のタテに長い庭の、むかしはお蔵が建っていた奥の方で毎日のように盥に水を張って日光で温めてぬるま湯にして母は赤ちゃんの体を洗った。それが妹だという記憶はないし、赤ちゃんの柔らかい肉の感触は自分じゃないと思えないほど気持ちよくて、ここにあるのももうひとつの自分の体だと思うほど自分の延長か自分そのもののように感じた憶えがあるが、そう感じたということは自分ではない、自分がぬるま湯を張った盥の中で母の手で洗われる赤ちゃんであったはずはなくそれは妹だった、しかし二歳か三歳まで子どもは出産時を記憶しているというのが本当なら、僕は赤ちゃんを洗う母の手を見ながら自分では洗ってもらったのを思い出していたのかもしれない。》(p51)
《生きている人ばかり知っていた頃は思いもしなかったことだけれど、僕が知っている死んだ人たちがその人たち自身が生きた時代よりも前の時代をその人たちの記憶とともに僕に運んでくる。》(p63)


ポール・ヴィリリオ『戦争と映画 知覚の兵站術』読んでる。
《具体的にいうならば、フランスにおける政教分離の後、二十世紀初頭の全ヨーロッパにおいて、神授権を持つ王政と帝政が崩壊した事実である。/第一次大戦は古い宗教と新しい軍事=産業的国家の間の特権的な関係を終焉させた。ソ連の場合のように、公的暴力の上に築かれたこれらの国家は、最大多数によって受容される(法的正当性を得る)ために、新しい形の意思一致を必要とした。そのために、大衆に代理信仰を押しつける緊急的な必要が生じたのである。》(p54)…と続く一連の叙述、まさに今読んでる『ラデツキー行進曲』が描いてることだと思った。