『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画─セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策』(アーティゾン美術館)


ともかくまず、マティスのやばい絵(『コリウール』)を見て、もの(ここの場合はまず他の展示作品のことだけど、ほんとうはそれだけではない)の見え方を変えられてしまうような、目が改造される感じがすごかった。
離れたところから絵に近づいていくと、ある瞬間から、教会(というのも初見じゃわからない、それもやばい)の上の部分の、白い空の絵の具の塗りが、視界の中で、グッと厚くなりだしてゆく、という現象が起こってしまった。自分の運動、視界、絵画、イメージの連動。まさかと思ったが、一旦下がってもう一度近づいていったら再現できてしまって、その強度ある再現性が楽しすぎる。
そして、何度か繰り返し見に戻るたび、油絵具の質感、光沢、線のエッジの立体感、などが全て自分に迫ってきて、見ている間にそれらが変容してしまうような感覚を覚えた。
凄まじい立体感をも持ち得てる空の部分の色の重なりに、どのように描かれたのか、そしてなぜこの状態で完成とされたのか、と意識が時間を飛び越えるうちに、それとも実は終わっておらず、次にまたもう一つ、今まさに、絵筆が重ねられようとしてるのかもしれない、と思うようになる。完結しているにもかかわらず、次の、絵の外からの、筆の動きが呼び込まれる、ある種の中断性、途中であること、がそこにはあり、そしてさらに、というかそもそも、完結しているなどと誰も言い切ることができないと気づいてしまい恐ろしすぎた。
(そして今、この文章を作りながら、買ってきたポストカードの『コリウール』を手に取り眺めているだけで、この、見た時の感覚が蘇ってきてしまうのもまた恐ろしい)

絵画という一見静止している物体には運動が潜んでいる。そして何者かが見ることによってそれが明らかになる、暴かれる、作動する。
モンドリアン(『砂丘』)は、絵がキャンバスから盛りあがってきて、額縁からはみ出してくるかのようだったし、カンディンスキー(『3本の菩提樹』)は逆に内側に凝縮されていくような動きがあった。しかし絵のサイズ自体が変わるわけではなく、凝縮するという動きだけが存在するような感じ。アクションだけがあり、その結果は現象されない。
セザンヌなんて、超動く、としか言いようがない。「超動く絵画としてのセザンヌ」というフレーズが頭から離れなかった。『鉢と牛乳入れ』は完全に鉢が動いてた。絵が動いた!ワッ、びっくり!というドッキリかと思うくらい。それに比べて、ってこれは今回禁句ではあるのはわかってはいるけれど、セザンヌの部屋のスナップなんて、どうでもいいということの良さすらないくらいどうでもいい。

そして、絵画は、見ているうちになんだかわからなくなる、わからなさに到達するまでのスピードが、写真と比べて早い。逆に写真が遅いということかもしれないが。このスピード、というかこの、見るときに経過する時間は、見る、という行為の中に嵌め込まれている、象嵌されている。

あと、今回は、これはもしかしたら写真と併置されているからかもしれないが、やたらと絵画の縁が気になっていた。額縁と絵画の際のあたり。絵の外と中の境目ないし間は、外なのか中なのか。どこまでが絵なのか。絵の具が塗られていなかったりすると(そもそも塗られていなければならないなんてことはないけれど)、外だからキャンバスがむき出しでも構わないとしているのか、と思ったり。意識として、または、物質としての絵画の外、とは一体どこ(まで)なのか。

平面、とか、奥行き、とか、そういう既存の空間の捉え方から見る人間をどんどん離れさせるものとして機能する絵画、と比べると、模様、patternとして、形状しかない、併置しかない、その写真の中で起こっている現象しかない、という極めて研ぎ澄まされ、削ぎ落とされた「限定」性の写真である柴田敏雄の作品や、写真の表面に、パズルゲームのように、縦や横に、構造的というか偶々その形状をとるように、そしてその偶然性が目を眩ませるように、ものが積み重なっていると感じられる鈴木理策の作品、これらの写真は、これはもう何周もまわってではあるけど(そしてこういう注釈自体が不毛でもあるけれど)、既存の、平面という捉え方しか宿していないなと思ってしまった。それが悪いというわけではなくて、絵画があまりにおかしい、豊かすぎるんだろうけど。

サム・ライミ『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』


あまりにもサム・ライミの映画すぎる。寄っていくカメラのスピード感ある動かし方、斜めにかしいだ構図、ディゾルブ、顔の並べ方、フェードイン・アウトの連発、むちゃくちゃ最高なアイリスイン・アウト、音の絞り方と爆音の鳴らし方、ダニー・エルフマンのギター、人体破壊、傷だらけの顔、グロテスクな暴力、スピーディに物事を進める早いテンポの編集、典型的「急展開」、女性の啖呵きり、死者の蘇生、悪霊、呪い、儀式すぎる儀式、などなど、見てる途中、あまりの楽しさに頭がおかしくなりそうだった。

しかし、この映画で扱われているモチーフのいくつかは、多分「原作」にも存在しているんだろう。ただ、それを踏まえても、というか、だからこそ、と言えるのかもしれないが、とはいえ、映画作家の(超)記名性をも受け入れてしまうアメリカン・コミックスという分野の懐の深さには感じ入ってしまう。

もちろん、ふと冷静になって、ただこうした要素を列挙して、それで喜んでどうする、という気がしないでもない。そして、ワンダが相当酷い状況にある、というのもわかる。
だけど、今作が、チープだけどリッチな、アメリカのお化け屋敷のような映画だと思えば、何が起こってても許容してしまう、というのもまた、現代においては問題なんだろうか。お化け屋敷と言えども、correctであるべきなのだろうか。

そして、ただ要素を、事件を列挙するしかできないのならば、こうして一つの文章にする意味があるのか、と言えば、(私が)映画に太刀打ちするためにはこの方法しかない、と言い訳めいたことを述べるしかないのだった。降伏宣言としての文章…。

マイケル・ベイ『アンビュランス』

映画にまつわる言葉やイメージは完全に統合されきらない。
とはいえ、スクリーンに向かい合う観客の中で、どうにかまとまろうともがき、そして我々も統合しようと試みるわけだけど、そこでなされるのは、仮設であったり、錯覚であったりするしかない。急拵えの強盗団のような、あらかじめ失敗が約束されたような集まり。
だからこういう映画は、なんとかして語ろうとするそばから離れてしまう、手をすり抜けてしまう。ともかく映画は逃げ続ける。Ambulanceのように。
私がなんとか必死にしがみついたのは、まず看板だ。冒頭の、《Mexican food》《Tacos》《Pastrami》のネオンサイン。そして登場人物たちが口にする、寡聞にして知らない料理名。頬張られるカリフォルニアロール
そしてもう一つ冒頭で目にするのは、俯瞰でとらえられる高速道路と無数の車たち。
と、これだけで頭によぎるのは三浦哲哉『LAフード・ダイアリー』で、この映画がこの名著を原作としてるのではという妄想が広がってしまう。
ともかく、あの本を読んでいれば、この映画が何をしたいかがわかるわけだ。で、実際に、何ができたのかは、別の話。
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『ヒート』、『スピード』(我々はヤン・デ・ボンと向き合わなくてはならない)と言ったタイトルが思い浮かぶが、その前に、そもそも劇中で繰り返される、「止まらない」(止まれない)というフレーズからして、やはり『アンストッパブル』だろうと思うわけです。車の中と外という移動し続ける2つの空間の相互に流れる時間の切断と同期(皆でゆっくりと進む車!)。無駄に低空で飛ぶヘリコプターには『サブウェイ123 激突』を思い出したりもする。そうなると、Ambulanceはやはり告解室になりうる(関係ないが本作に「も」、「サイエントロジー」というフレーズが出てくる。関係ないけど)。
そして、この映画でたがが外れたように使われまくるドローンの、撮影対象の周囲を駆け巡り、ぶつかりに行くようなカメラワークのことを考えて、この映画では、カメラもまた、車やヘリコプターと同じように移動する乗り物、vehicleとして「登場」してるんだと気づいた。
ところで、成り行きで協力したにも関わらずこれ幸いと"パピ"の警察への憎しみをしっかりと込めたと思わしきド派手なトンデモマシン的ローライダーによるmassacreのシーンを、痛快と言ってしまっていいんだろうか。
もちろん警察側の人々の描写も素晴らしい。その辺から集められたような身なりの人々がタクティカルベストだけをつけてバチバチに銃を撃ちまくる。そこに制服組、スナイパーたち、いいキャラすぎる分析官、そして犬が入り乱れ追跡を繰り広げる、まさに珍道中。そんな皆に死んでほしいと観客として思ったわけではない。
というか、多分、誰も、誰かに死ねと思って殺す、なんてことはないんだと言い切りたい。バサッと何かが断ち切られるように死ぬ。しょうがなく引き金を引く。引かざるをえない。
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横たわる人間の、縦になった眼のアップ、なんて画がマイケル・ベイ作品で見れるなんて、と虚をつかれた。

ジョン・ワッツ『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

"care"、"fix"、"cure"という3つの単語について。
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最初にメイおばさんの口から"care"という言葉が放たれて、そのアクチュアルさに思わず惹きつけられてしまう。字幕ではそのまま「ケア」だったはず。しかし、この言葉はこの後使われることはなかったように思う。
次に"fix"が、中盤にかなり多用され、そして物語の後半に"cure"が登場する。この2つはどちらも「直す」「治療」と訳されていたと記憶している。
この3つの単語には、明らかに何か関係がある、と言ってみることにする。
では、これらはすべて同じ意味として使われてるのか、つまり完全な言い換えなのか、それともそれぞれ全く別の行為を指してるのか。
それについて、製作側は果たして何を意図しているのか、を考えてみる。
それは、"care"では弱い、"fix"では強すぎる、その中庸にあるプラグマティックな解決策として、"cure"が提示された、という流れなのではないかと。
主体性の薄い"care"でも、偏りの強い、ひとりよがりすぎる"fix"でもなく、複数の意志それぞれが反映され相互に入り混じり具体的な結論へと辿り着く"cure"を、この映画では文字通り最終的な「結論」とした、とも言える。

ただ、最初に登場する"care"と、その他2つの言葉とは、翻訳の違いにも表れているが、含まれる意味が異なる部分が多いんじゃないかと思う。
後者にあるとしても薄い、現状の肯定の要素が前者には多分にある。時には「改善」されない、こともあり得る。そしてその分時間を必要とする。
だが本作ではそれをそのまま貫くことはされず、"care"は退場してしまうことになる。

そして、"cure"の結果起こったのは、あまりにも即効性が高すぎる行為としての、完結したととらえられていた物語の書き換え、としか言いようがない出来事だ(これを、存在するはずだったが作られなかった続編ができてしまった、とはとても言えない。少なくとも自分には)。
果たしてこれは許されることなのか。過去の、既存の作品の否定、ととらえられても不思議じゃない(でも、そういう人が実際どれくらいいるのか、もしかしたら少ないのか?)。
と考えた時、では、これを許さない、とすることを許されるのは、一体誰なのか、という問いが出てくる。過去作を愛した観客なのか、それともその監督か(過去作にもあったサム・ライミ版へのオマージュが、本作は過剰なまでに詰め込まれている)。
さらに、仮にその誰かが許していなかったら、この作品が今の形で完成することはなかったのか、と。……いや、それは、金銭や契約云々の力で完成するだけなんじゃないか。もちろんその苦労たるや半端じゃないだろうし、そういうバックステージ的観点から映画を捉えるのもおもしろいとは思うけど。
結局自分たち(ここには今作で嬉々としてかつて自分たちが演じたキャラクターを再演しているキャストたちも含まれる。生き生きとしたウィレム・デフォー!)で決めた枠組みを自分たちで壊してるだけの自作自演(まさしくジョン・ワッツの、トム・ホランドのピーターがこれまでやってきたことだ!)じゃないか、という気持ちになってくる。でもそれと同時に、この作品が呼び起こす、あらがうことのできない、まるで自分の過去を肯定されるような途方もない感動、を肯定したい気持ちも、両方がある。

しかし、そもそも誰かが(何かが)ある作品の完成を許可する、認めたり、認めなかったりすることが可能なのか。それは、映画における権利とは、作家とはなんなのか、という話にもなってくる。
つまり、主体とは何か、ということ。そして、さらに言えば、主体の許可を得ずに「治療」する、作り替えて別のものにしてしまう、とはどういうことか、ということ。
そして、多分、それを許さないものがあるとしたら、人間の、または物語の、フィクションの、倫理なんじゃないだろうか。
と、ここまで考えてきたことは、もしかしたらアメコミの熱心な読者たちにとっては自明の問題なのかなという気もしてきた。まぁいいです。

ただ、以上のことは、(治療される、ないし、芸術を作る)人間には統一された主体、意志というものが存在する、という前提ありきの話ではある。
意志なんてものはない、とするなら、誰かが何かを決定することは本質的には不可能で、そう見えたり、思えたりするだけにすぎない、ということになるだろう。もしかしたら、今作は、この立場をとっているのかもしれない。だから、3つの言葉、という選択肢(の推移)も、提示されているように見えるだけだったのかも。
…って、そんなのは当たり前じゃないか、映画なんて、結論ありきでしか作られてないし、さらに、映画が、限られた時間の中でしか表現することのできないメディアであることは決まっているのだから(だから"care"は退場してしまったのだ)、いうことなんだろう。

ただ、それでも、やりようはあったんじゃないか。
この映画で起こった、複数の世界の混在、という現象自体はそのままにして、ある単一の世界で全てを解決するのではない、そして、解決不可能だとしてただ放り出すのでもなく、それぞれの世界ごとの問題として、新たな道筋を指し示すとも共に、それぞれの世界へ投げ返すような、結論の、ある種の「先送り」としての"care"。
混在を経ることによって、混在しなかった場合とは異なった結果を生む、という風に描くこともできたんじゃないかと思えてしまうんだけど……。
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うーん、またなんか歯切れの悪い終わり方になってしまった。ジョン・ワッツスパイダーマンの都市性の薄さ(爽快感、開放感のないウェブスイング)とか、ホームカミングから続く乗り物と移動の主題系が本作ではどうなっているのか(代替としてのストレンジの魔術)とか、いろいろあるとは思うんですけど。映像的表象についても何も書いてないし(言えるとするなら、豊かさが極端に削ぎ落とされて、ある種の貧弱さすらある、とは思います。そしてそれは多分意図されてる)。まぁとりあえず、異形の作品であることは間違いない。

The best albums and songs of 2021

今回もよく聴いてたものを選んだだけ。順位をつけるのもアレな感じなので順不同。なんか、ヒップホップばっか聴いてるなという印象。でも一番はやっぱLittle Simzかなー。

『tick, tick... BOOM! (Soundtrack from the Netflix Film)』

『Shang-Chi and The Legend of The Ten Rings: The Album』

dvsn『Amusing Her Feelings』

Jon Batiste『WE ARE』

BROCKHAMPTON『ROADRUNNER: NEW LIGHT, NEW MACHINE』

Topaz Jones『Don't Go Tellin' Your Momma』

black midi『Cavalcade』

Abstract Mindstate『Dreams Still Inspire』

Little Simz『Sometimes I Might Be Introvert』

Terrace Martin『DRONES』

Lil Nas X『MONTERO』

Drake『Certified Lover Boy』

Nas『King's Disease II』

Nas『Magic』

以下の曲は2021年マジで繰り返し聴きまくってた。

藤井風「きらり」

KIRINJI「再会」

STUTS & 松たか子 with 3exes「Presence I (feat. KID FRESINO)」

スカートとPUNPEE「ODDTAXI」

Official髭男dism「Universe

C.O.S.A.「Motown Man」

The Best Movies of 2021

また例によって新作もそんな見れてるわけもなく、ただの記録でしかないわけですけど、まぁ一応考えた。意外と邦画が多いのが自分でも驚いたけど、多分どれも小さく縮こまってないつくりの作品だからよかったんだと思います。偉そうだな。

11. 劇団ひとり浅草キッド』(2021)
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期待通りの良質さ!

10. 吉田大八『騙し絵の牙』(2021)
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コンゲームであり、探偵物であり、サスペンスであり、マスコミ物であり、銃撃も、逃走劇も、飛び立つ飛行機もあって……最高じゃねえか、というね。グローバルに対するローカルの良さを提示して終わるのもクールでしたねぇ。
そして大泉さんのハリウッド的登場人物が如き飄々としたドライさ(人がいなくなってから感情を爆発させる!)にしびれました。

9. ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(2021)
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キュートでスイート、メロウでサッド、そしてグロテスク、な映画って感じ。反米的でありながら愛国的でもあるという、これこそアメリカ映画だ、という作品。

8. 前田弘二『まともじゃないのは君も一緒』(2021)
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清原果耶さん演じる女子高生の、言葉と情報量の多さと行動力(スナックでエナドリ飲んでくだをまく!)、そこまでに至ることのできる理由の描写のなさ、が完全にハリウッドのコメディで好感を持った。
あと本作に登場する女性のキャラクターが皆、まともで倫理的なのもよい。ぱっと見、外見だけで判断して、(香住が、観客が)勝手に作り上げた内面が、いい意味で覆っていく。

7. 森淳一『見えない目撃者』(2019)
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ともかく、キャラクターの性格の造形、出来事や登場人物の能力のあり得なさ、短いシーンの美術や人物の言動のリアリティ、全てが「ちょうどいい」映画でしたね〜。ちょろっとしか出てこない渡辺大知くんの名簿屋のシーンとか、スカウトマンのくだりとか、ともかく「ちょうどいい」んですよね。最低限よりちょっといい、くらいの感じなんだよな。めちゃくちゃ言葉にしづらいけど。
途中で、これがマット・マードックだったら…でも吉岡里帆ちゃんだしなあ…と思ってたらラストきっちり締めてくれたんで大満足です。銃で眼をぶち抜くなんて、最高すぎる。
そして田口トモロヲさん演じる木村刑事のあの曰く言い難い感じよ。決してめちゃくちゃ優秀な刑事ってわけでもない、さりとて日本映画によくある足引っ張る系のバカでもない、中庸の感じ。キャリアを積んだ刑事の冷静さが滲み出てて(リアルかどうかは知らんけど)すごくよかった。
あと個人的には、犯人周りの描写が必要最低限なのもよかった。一応本人の語りとかあるんだけどそれも結局ほんとなのかなんなのかよくわからない(よね?)。で、この映画で1番しつこさを感じるのが死体描写っていうね。むちゃくちゃだよ!(褒めてます)
それと、あと高杉真宙くんに襲いかかる黒い車のしつこい動きがもはや『クリスティーン』なの笑ってしまった。つまりこの映画、しつこくするところのバランスがいい。

6. 田中裕太『映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』(2019)
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画も動きもストーリーも設定もテレビシリーズとの連関も全てが良い(今更見て褒めるのも恥ずかしいですけど…)。

5. パティ・ジェンキンスワンダーウーマン 1984』(2020)
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「欲望(の時代としての80年代)」と「(登場人物たちの、叶うはずはなく、叶ったと思ってもそれはまやかしであって、かつ叶ってはいけない)願望」の、そしてホワイトハウスバトル物(そんなジャンルはない)の映画。

4. クロエ・ジャオ『エターナルズ』(2021)
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伸ばした手によって、相手を殺すことといたわること・愛することを同時に行うこと。もちろんこの「手」は、人類にとっての(科学)技術の喩えでもあるわけだけど……。
しかしまぁ、エターナルズたちのキャラクター造形に完全に心を掴まれてしまった。全然無敵でもないし、完璧でもない、ある決まった生き方しかできない人々(ってそれはつまり我々のことだ)の切なさ。イカリスの涙に、全然同情すべきじゃないんだけど、こっちも泣いてしまった(なぜなら私も彼のような有害な男だから…ということか)。
にしてもテレンス・マリックをこんな風に使うとは!(そしてなんと驚くべきことに、テレンス・マリック作品自体にも逆照射する映画にもなってる…)そして何よりまたしてもドラゴンボールという。いい加減に(とか私がいう義理ないですけど)近年のブロックバスターにおけるドラゴンボールの重要性みたいなものをきちんと検証すべきなんじゃないのと思った。

3. ルーベン・フライシャーゾンビランド:ダブルタップ』(2019)
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「聖地」のないアメリカに作り出された「擬似聖地」、歴史とか宗教とか文化とかでなく、芸能によって、エンターテインメントによって作られた聖地としての「本物」(本物の偽物!)のグレイスランド、ではなくてそれを模倣した虚構(偽物の偽物!)のグレイスランドを、模したモーテル(偽物の偽物の偽物!?)に、「本物」のエルビスの靴があり、そこでそっくりの登場人物同士が出会う、という本物と偽物の多層構造にグッときた。
この本物と偽物、現実と虚構、実物と模倣、については、まさしくアメリカ自体がその二面性によって成り立っている国だ、ということですよね。リンカーンが寝ていないリンカーンベットルームの象徴性よ。
しかもゲーテッドコミュニティと銃の所持についての問題まで描かれる。そして結論は、銃はたくさん無くてもいい、けど1丁くらいはあった方がいい!っていうね。なんつープラグマティックさよ。

2. ジョン・クラシンスキー『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(2021)
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冒頭の野球場のシーンでのカットの繋ぎ方の切れ味から、あれっもしかしてこの映画、編集がすごいのでは…?という思いがよぎり、その予感が当たってしまった。正直、やりすぎというか、ここまでやっていいのか?と勝手に問いかけたくなるくらいではあった、でも、2つの鉄橋が繋がる美しさ、光と炎と水が構築するスリルとサスペンス、そして2人の子供、の(あからさますぎる)素晴らしさには何も言えない。
"DAY 1"での聖書を口ずさむ男性の口元を手で塞ぐシーンで、前作同様、またしても「信仰告白」の映画じゃん!となり、しかもその後の「着信音」を使った展開には、おもしろさ、サスペンスの中に完全に個人の主張が含まれており(アンチテクノロジー!)、あの「箱」を出すことでさらにこのモチーフを強調する。しかも後半でこの箱が入れ子状態(しかも「時間制限」をあまりにもあからさまに示して)になってしまうという詰め込み具合。
後半に登場する、靄がうっすらたちこめる闇夜の港町の画を見た時には志向するところがはっきりとしすぎてて笑ってしまった。その後の「不気味」な展開を予見させる画作り!
しかしこの、港町からの後の展開の手際の良さ、見えすいた「段取り」感にも度肝抜かれた。ボート!島!みたいな…まるで地上波テレビ放送するために尺調整してるかのような編集!…ってこれは全然悪口ではなく、ここまで割り切ってバサバサ切って繋げているその姿勢に感動したという意味です。
そして「島」での展開のスピーディーさは、港町での出来事と対比になってるわけですよね。環境によって「他者を受け入れる」際の振る舞いがどれだけ異なってしまうかという。
ラストについてはまさしく前作の続きで、「自警は終わらない」とでもいうか…それってアメリカの自警主義なんじゃないですか!?MAGAに親和性すらあるのでは!?と思ってしまう。もちろんわかっててやってるんでしょうけど。
あと"DAY 1"を描くことによって、なぜアボット一家がある程度のところまで皆生き残ることができたのかを端的に示し、そして障害に関する、かなりセンシティブな価値観(障害を優れた能力とする、的な)を提示してして、そこの是非は問われるべきだとは個人的には思います。

1. デヴィッド・フィンチャー『Mank/ マンク』(2020)
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冒頭の、車が迫り来る音と劇伴が同時に流れているのを聴くだけで異様に高揚してしまいました。
そして、ハリウッドトンチキ偉人(≒悪人)列伝…?かと思いきや"Republicans vs Democrats"、ヒトラーとFDR、そしてアプトン・シンクレア!フィンチャーの気合いを感じた。
正面でも横でもなく、斜めから見ること、斜め方向から車や人がやって来て、去っていくことが描かれていた。斜めにすれば、どこから来てどこへ行くのかを一つの画の中に収めることができるから、ということ……。

面白かった本2021

伊藤亜紗『どもる体』『記憶する体』『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』



前田拓也『介助現場の社会学 身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』
https://www.seikatsushoin.com/bk/045%2520kaijogenba.html

鈴木透『食の実験場アメリカ ファーストフード帝国のゆくえ』

三浦哲哉『LAフード・ダイアリー』

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』

千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』

岡田温司『キリストの身体 血と肉と愛の傷』

竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学

どれも、読んでいて驚かされ、自分の中で既知だと思っていたものが覆され、スリリングさにひたすら興奮させられる論旨展開がある本。
そして伊藤亜紗先生著作、どれもおもしろいんかい、という喜びを感じた1年だった。

ほかに面白かった本。
パリッコ『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』
杉田俊介『人志とたけし 芸能にとって「笑い」とはなにか』
工藤庸子『女たちの声』
大江健三郎『晩年様式集』
ジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』
『彼自身によるロラン・バルト
上島春彦レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』
鹿子裕文『へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々』
蓮實重彦『映画時評 2009-2011』
巽孝之アメリカ文学史のキーワード』
渡辺拓也飯場へ 暮らしと仕事を記録する』
波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』
ミシェル・ウエルベック『地図と領土』
橋本倫史『東京の古本屋』
小島信夫各務原・名古屋・国立』
佐々木中『この日々を歌い交わす アナレクタ2』
金井久美子・金井美恵子『鼎談集 金井姉妹のマッド・ティーパーティーへようこそ』

なんか多いな……。パリッコさんのは、ともかく向井秀徳回と大谷能生回が最高です。実用的なのも良い。そしてなぜか2021年に金井姉妹の鼎談集が読めてしまう、という出鱈目さで、今年が終わるのだった。