ペイトン・リード『アントマン&ワスプ:クアントマニア』


https://youtu.be/C64RBMl04bc
評判は悪かったけど普通に楽しめた。みなどれだけのものをMCUに望んでるんですか?やっぱり自分は門外漢なんだなと感じてしまった。多分コミックをちゃんとフォローしてる人からしたら耐えがたいところがあるんだろう、というのは薄々わかる。モードックとかね。

そりゃあジェームズ・ガンは真面目にやってるけど、ペイトン・リード監督も、ガンとはまた違ったベクトルであれ、真面目な映画を作ってると思った。それはたとえば、ちゃんとあるモチーフ、テーマを設定して、それにまつわるストーリーを語り、人物の言動を描いてるという意味で。それの一つが責任について。小さき者たちはどこまでが我々に関係し、どこまでを救うべきなのか、という問いは非常にクラシック。
それの具体的な処理の仕方、結末の付け方の巧拙は置いておくとしても。とかいって偉そうですけど。

拍子抜けするようなある種のダサさ、チープさみたいなものを自分は肯定的に捉えがち。例えば今作なら、最後の「奴は四天王の中では最弱」のシーンの、コロコロコミックが如きキャラクター造形。もっとかっこよくできたでしょ、と思うが、ああいう感じはもしかしてコミック由来なのかな、とも思ったり(調べたらやっぱりそうでした)。それと多分、大多数の人が嫌ってる、カーンとスコットのタコ殴り合いもなんだかほっこりしちゃった。「さようならドラえもん」のジャイアンのび太かよ、と…これだけ書いたらわかって欲しい、というわがままです。

ドラえもん、の名前が出たから勢いで書いちゃうけど、今作のアリたちについてのくだり、時間の流れの歪みというか乱れ、がちょっとだけ劇場版ドラえもんを思わせた。該当のエピソードがあるわけじゃないですし、これもまたファンの人は怒るでしょうけど。

そしてこれ、密かに『アントマン』1作目回帰的なことなのか、とも。脱獄や変則的ハイスト、ルイスはいないけどスコットのダラっとしたモノローグ(とポール・ラッドの顔芸)もそうだけど(まぁこれは2作目にもあったか…)、なによりまず、メランコリックでメンヘラなおじさん(たち)の話である、ということ。そういう意味で、わたしは『ロキ』を見てないので、初めて今作でジョナサン・メジャースのカーンを見たけど、抑圧された低いトーンの語り、鬱々とした感じが結構好きでした。

ダークナイト』から10年以上経てもなお、コミック原作の作品がことさら深刻ぶることを、いまだに良しとされているなかで、この言い回しもかなりセンシティブであることをふまえてあえて使うが、漫画的であることを指向している、と解釈できる作品もまた良いものだ。

ところで、チープさとは、つまり簡単さ、容易さのことだ。今作の行きて戻りし、往還のなんと簡易なことか。なんせ子どもの工作で可能になってしまうんだから。そういった意味で、本作の真のテーマは、事前に思っているよりも「簡単に穴は開く」、ということなのかもしれない(?)。

ベン・アフレック『AIR/エア』


顔のクロースアップ同士が過剰なまでに徹底的に繋がり続ける会話劇なんだけど、会話というよりつまりは、これもまた、アメリカ映画の典型の一つでもある、一方がもう一方を説き伏せる「説教」映画である、と言うしかない(「牧師さん」も登場するし)。つまり、会話の行き着く先は、説得する側とされる側に別れる地点しかない。
そして、それ自体はこの映画の疵にはならない。作中では、虚ろなイメージでも、ズレた冗談でもなく、まさにその説得、相手へ真摯に熱意を持って語りかけることが最終的に人を、事態を動かす、ということが描かれるわけだから、目指されるところだったろう。

でも、まず何がひっかかるのか、といえば、その説得に賭けられているものは何か、賭けている者(たち)は誰か、という話になる。
命を賭けろ、全てを失うかもしれない賭けでないと…とまでは言いたくないが、しかし、ことアメリカ映画においては、そういう苛烈さを求めてしまいたくなる。そしてその苛烈さが、失敗できないというスリルになる。
そういう意味で、今作は初めから、辛勝どころではない、大勝利があらかじめゴールに設定されており、それを観客も当然知っていて、結局のところそこに向かっていく。
それは、史実通りであれば、ということなんだけど、じゃあ仮に、フィクションの展開を持ち込んで、事実とは違う結末にしたとしても、結局のところ、大したことが起こるわけでもない、という気もする。

そしてその勝利とは、誰にとっての、なのかと言えば…。

なかばこの映画のために見たといっても過言じゃない『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』を見ながら感じていたことにも通ずるんだけど、ナイキ史上類のない契約だの、経済の複雑な問題だのと御託を並べて事態の異常さをあおったところで、この映画の中の言葉で言えば、結局のところ「太った白人男」たちのはしゃぎ合い、お遊びでしかないんじゃないのこれ?とまぁ、きつい言い方をしたくなる。作中の、機能性より見た目の美しさを選び取って作られたスポーツシューズなんてまさにその象徴となってしまってないか?もちろんその素晴らしさには観客も惹かれざるをえないわけだけど。まるで絶世の美を誇るヒロインのようにまんをじして登場するエアジョーダン1。

どうせ彼らは、ナイキをクビになっても、「口のうまさ」で転職できるし、健康のために自由に外を走り回ることができる(悪事を働いて逃げている、なんて思われることもないし思われるわけもない!)。ましてや、ナイキが潰れることもないわけで。そしてもちろんこの「太った」という形容詞は、実際の体型の話ではない。なので、体がshapeされてようがいまいが、ランニングしてようがしてまいが、関係ない。むしろそうして体型だの健康だのを気にする、気にすることができることもまた、「太っている」んだと言い切ろう(?)。

それに対して、まるでどっしりと構えていささかも揺るがないように見えてしまうデロリスが、もちろんそんな安定した立ち位置にいるわけもなくて(だからこそソニーの当然の訪問を警戒したり、彼を家の中にも入れず話し合いを庭で行ったりするのだろう)、息子のために、いやもしかしたら黒人社会のために、一世一代のはったり(あれは紛れもなくはったりでしょう、なんの前例も確証もないわけなんだから)をかまして、大企業を動かす様子には感銘を受ける方が、まだ健全だと言える。
とはいえ、この代償は、この後、絶対に成功せざるをえなくなった息子が引き受けることになってしまうわけなんだけど。

序盤は確かにかなりソダーバーグ作品のような質感があったけど、まぁそれはおいておくとして、この作品こそがアメリカ(的)映画だ、と言われているのは、あくまで個人的な嗜好でしかないけど、首肯しがたい(ドイツ訛りの英語、のくだりのナショナリスティックさがそうだと言えばそうかもしれないが…)。
ここには嘘がない。事実だから、という意味じゃない。その場をなんとか切り抜けようとするでまかせが、まるで真実であるかのように描いている。でまかせはでまかせ、ほらはほらであって、あからさまにそうであるからこそ、そういうものに信念や、場合によっては命すら賭けて、なんとか生き延びようとする、そうした行為が善であり希望であり未来である、それが(ここでは自分にとって、とするしかないけど)アメリカ(的)だということ。
とはいいつつも、社屋の中で1番寝やすいソファー、ささやかなバースデーカップケーキ、ミドルエイジクライシスの中年男のスケボー、とか(アメリカ映画としての)細部は輝いている、が、ただ輝いているだけ、とも言える。ベン・アフレックならその程度はできて当たり前じゃないですか?
でもラストの、オフィス全員での歓喜のシーンはいただけない、というか、あまりに無理矢理すぎる。あれをやるにはもうちょっと演出を入れて、もっと描写が必要だったろう。やりたいのもわかるけど。

それにしても今作のマットは、眉毛がやたらとつりあがっていて、ディカプリオが物真似するジャック・ニコルソンみたいになっていた。

おもしろかった本2022

タイトル、去年まで漢字だったけどひらがなに開きました。今年の新刊、ということであれば、断トツで『青空と文字のあいだで』かなぁ。今年の終盤は、小説を書かなければいけなくなって、あまり読めなくなってしまった。
今年、家の近所についに良い書店ができて、そこで良い本と出会うことができた、というのもあった。『ケア宣言』なんかはまさにそう。
あと、『トーフビーツの難聴日記』だけでなく、青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀 ある映画作家の日記2016‒2020』や柿内正午『プルーストを読む生活』(こっちはまだ読み終えてない)などの本の影響で5月くらいから日記を書き始めた。iPhoneのメモアプリに、今のところなんとか毎日、延々と書いている。
そして今年最後に買って、読んでいる本はアナ・チン『マツタケ』で、これが読み終えてたら今年のおもしろかった本に入ったかもしれない。これは来年かな。

荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』

廣瀬純『闘争のアサンブレア』

岡田美智男『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』

圷洋一、金子充、室田信一『問いからはじめる社会福祉学 — 不安・不利・不信に挑む』

西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学

tofubeatsトーフビーツの難聴日記』

岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮

ケア・コレクティヴ『ケア宣言 相互依存の政治へ』

津野海太郎(著)、宮田文久(編)『編集の提案』

國分功一郎、熊谷晋一郎『〈責任〉の生成 - 中動態と当事者研究

前田英樹セザンヌ 画家のメチエ』

『建築と日常 No.2 (特集:建築の持ち主)』

伊藤亜紗『きみの体は何者か ─なぜ思い通りにならないのか?』

『わたしの身体はままならない 〈障害者のリアルに迫るゼミ〉特別講義』

里見喜久夫『障害をしゃべろう! 上巻 -『コトノネ』が考えた、障害と福祉のこと-』

伊藤亜紗、村瀨孝生『ぼけと利他』

白石嘉治『青空と文字のあいだで』

金井タオル『つくづく別冊③ 自由研究の経過報告 おかしな雑誌のつくりかた』

石山修武『セルフビルドの世界 ─家やまちは自分で作る』

The best albums and songs of 2022

今年は順位をつけてみた。年ごとにつけたりつけなかったりは完全に気まぐれ。あらかじめ選んであったアルバムの中からパッとフィーリングで抜き出した。それにしてはちゃんとしてるなと自画自賛したい。
基本的に聴いた頻度が高かったものでしかない。どれも自分にとってシンプルに聴きやすいもの。快楽的すぎるかもしれん、というのは結局毎回言って、思ってるな。

18.Lizzo『Special』

アゲ〜って感じです。

17.Conor Albert『Live at The Pool』

ライブ盤ではない?レコーディング盤?的なものも出てるんですけど、こっちのライブ盤の方が好きです。全然関係ないけど、ライブ「盤」って表記正しくない?ライブ「版」?わかりません。

16.Smino『Luv 4 Rent』

変メロウ(変メロウ?)。

15.Sherwyn『MAKER'S DESIGN』

切ないメロディにグッとくる。いいメロディのあるラップミュージックは良い。

14.Sean Leon『HERD IMMUNITY』

トラップ、なんだろうけど、自分の感覚としてはトラップど真ん中から少しズラしてあるような。頭振ってノれる、身体的でよかった。

13.BROCKHAMPTON『The Family』

これがラストアルバムなんですかね。オーセンティックでありながらフレッシュって、それが良いヒップホップってことだな。

12.YeYe『はみ出て!』

あのー、ビムくんが参加した曲の中で一番いい曲が入ってます。こういう歌心があるラップがいいんじゃないの?

11.Trombone Shorty『Lifted』

リッチ!1曲目からブチアゲられるから最高。

10.isomonstrosity『isomonstrosity』

エッジきいててクールでヤング!(なんじゃこれ)…ヤングかどうかは知らないが。

9. Brent Faiyaz『WASTELAND』

不穏で不吉、けれどもかわいげがあってポップ。なんとネプチューンズ参加曲もある。

8. 蒼山幸子『Highlight』

ツイッターにこう書いた。


こういう感想です。ノスタルジー…?

7. Dorian Concept『What We Do for Others』

どう表現したらよいかわからないが…空間的?というんでしょうか、そういう曲。

6. 藤井風『LOVE ALL SERVE ALL』

全曲良いアルバム。これも聴いた回数で選んだかな…。

5. Harry Styles『Harry's House』

あえてこういう言い方をするけど、趣味のいい、全然マスキュリンじゃない音楽。これをやれるトップスターってすごいね。

4. Bloc Party『Alpha Games』

なんで2022年にもなってブロックパーティーを聴いてるんだ?とも思ったし、なぜこんなに良いんだ?というのも正直よくわからない。なつかしさなのか?

3. Nas『King's Disease III』

ここまで、勤勉さを感じるくらい毎年出されている新しいアルバムを毎回気にいるんだから、自分はNasが好きなんだろうと思うけどいまだに自覚がないのだった。今作はまず曲名が良い。いいドラムといいリズム、いいサンプリング、いいラップ。

2.Calvin Harris『Funk Wav Bounces Vol.2』

当たり前のように、多分回数で言えば今年一番聴いたアルバムだろう。期待どおり。期待どおりでいいんです。

1. Phony PPL『Euphonyus』

Phony PPL自体は好きで聴いてたけど、今までのアルバムは、タイミングが合わなくて新譜としては聴けてなかった。このアルバムが初めて、その年の新譜として聴けたもの。とても良かった。何回も繰り返し聴いた。

以下は今年よく聴いた曲。アニメ見てたからその影響もあり。

Millennium parade「No Time to Cast Anchor」

TOMOO「オセロ」

大比良瑞希「33歳のエンディングノート

岩田剛典「Only One For Me」

土岐麻子天国にいちばん近い島

MORISAKI WIN「俺こそオンリーワン」「Don't Boo! ドンブラザーズ」

私立恵比寿中学「青春ゾンビィィズ」

崎山蒼志「I Don't Wanna Dance In This Squall」

Beyoncé「BREAK MY SOUL(THE QUEEN REMIX)」

Ayumu Imazu「Tangerine」

藤井隆「ムーンライトアドバイス

降幡愛「Wonderland 夕闇 City」

Joyce Wrice「Iced Tea」

YOASOBI「祝福」

シユイ「君よ 気高くあれ」

加藤礼愛「決戦は金曜日 - OTTN Cover Version -」

8LOOM「Melody」

Vaundy「CHAINSAW BLOOD」

KWON EUN BI「Glitch」

断トツはもうこれです。今年はこれ。こればっか聴いてた時期がありました。理由はよくわからないんですけど…私の好きな、徒花感、なんでしょうか。

二宮和也「Pretender」

井上雄彦『THE FIRST SLAM DUNK』


映画ってそもそも自己と他者、見ているもの(現前するイメージ)とかつて見たもの(過去、記憶)、といった本来区切られていると思われているもの同士が混在して区別がつかなくなるメディアなのでこんなこと言っても詮無いですが、『THE FIRST SLAM DUNK』を見て感動したとかすごいとか言う前に、この感覚が、この作品固有なのか、それとも自分の過去の回想から来ているものなのか、少し冷静になりたい、と思ってしまった。そして冷静になりたいと思うことがこの作品の自分の評価なのかもしれない。つまり、またスラムダンクを読み返したくなる作品、という感じ(逆に言うと、読み返したくなった「だけ」、とも言えるのかもしれない)。我々は何度も山王工業戦を「再読」でき、そしてそのたびに感動することができるのだから、それでいいじゃない、という(?)。

ただそもそも、ある映画が、その映画にしか存在しない固有のイメージ、観客に与える感覚、を保持してる、というのもまた、ありえない幻想にすぎない、というのも認識しているつもり。
ならば別に今作も、このままでいいじゃないか、という話になるわけだけど、そこで完全にそう納得できないのは、やはり、それでもなお…ということだろう。それでもなお、固有のもの、その映画でしか見ることができないもの、その映画以前にはなく、その映画で初めて出現したもの、を追い求めてほしかったというか。そしてそれは、全編にわたっている必要もなく、数々の細部を同時に際立たせたり、そこに潜んでいるモチーフを晒してしまうような、ある一つの視点、ある一つの、例えば一瞬の電撃のような切り込み方(上手い包丁の捌き方…)、でよくて、ただオリジナルエピソードを追加するとかでもなく(それは元々の話を補完する程度の機能しかない…んじゃないですか)、しかもおそらく、技法の話でもない。というか、はっきり言いますが、私は新しい技法の話をしたくない、ってことです。それは他の人にまかせたい。とか言いつつ、何かを言うとすれば、カットバックによって接続された試合のシーンと屋上のシーンの違い、花道の回想ダイジェストの時の絵は一体なんなんだ、っていうのはある。これ以上は詳しくないので言えません。それに、普段バスケの話をしてるのを見たことないオタクがバスケの試合の臨場感が〜とか、音がどうとか言ってるのと同じことを言うのも、恥ずかしくて無理。

で、多分、その新しさ、みたいなものの一つとして、短編「ピアス」の掘り下げ、があったのだろうと思う。しかしこれが、おそろしいほどにピュアでノーマルでシンプル、これまでも様々な作品で繰り返し語られてきた物語なのだった。喪失、繰り返し、再生…。この特殊でなさを作品へ持ち込むことが、必要だと判断されたんだろう。少年漫画は特殊(な主人公、モチーフ、出来事)すぎるから…。

ところで、この付け足しによって今作は、ジャンプっていうかサンデー、集英社というか小学館の作品みたいになっていた。具体的には、過剰さを省いた曽田正人作品のようだと。だからこの作品を良いと思った人は、『め組の大吾』『昴』を読んだらいいんじゃないでしょうか。

それにしても、瀬々監督の『糸』もそうだったけど、テーマソングを複数使うのってありなの?大事なところで1回使う、って方が良くない?

お金を渡す

路上で道や、駅の場所を聞かれたりして、その流れで、帰るための交通費を貸してくれないか頼まれる、というやつがたまにある。自分は何度か遭遇していて、結構その度に渡している。相手から連絡先を聞かれることがあるが教えたことはないし、連絡先を教えてもらおうとしたこともあるが、なんやかんや理由づけして教えてもらえたことはない。
つまり、親切心につけこんだ軽いカツアゲみたいなものだ、と解釈してる。「つけこんだ」とか、あまり使いたくないけど、他の表現が思いつかないので仕方ない。
最近も、おそらくそういう目にあった。おそらく、というのは、お金を渡すところまではいかなかったから。
聞かれたのはよりによって池袋の駅の中で、木更津への行き方だったんだけど、駅員に聞けばいいし、あと自分もすぐにはわからないから調べるしかないし、と言ったら、めちゃくちゃめんどくさそうに拒まれて去られた。
多分本当に知りたかったわけじゃないなと思った。そもそも、行き方を聞くのに駅の中はさすがにおかしくないか。だってすぐそこに教えてくれる人がいるのわかりきってるのに。交番も近くにないような路上でやるのが普通だろ。
と思って、駅内でそんな半カツアゲみたいなことするわけないから、もしかして本当に聞きたかったのか、と今考えてる。もしくはお金ではない、何か別の目的があったのか。大荷物を持ったおっちゃんで、そこまできちんとした喋り方もしてなかったので、何かの勧誘のようには見えなかったけど。

こういうお金の得方に対して、結果的には、そこまで反感を持ってない。その瞬間は、自分の外見が、いかにも引っかかりそう、懐柔しやすそうと思われたんだなと感じて、いやな気持ちになることは否めないけど。
盗みでもない、すごく微妙な行為だなと思う。だから、こういうのに絶対に騙されない、お金を絶対に渡さない、とも思いたくない。が、自分もそんなに裕福ではないから、施しの精神みたいなのものでもないが、まぁそれに近いものでもある。偉そうに見えるが、ひっかかってる、という体裁もあるから、あまり偉そうになっていないんじゃないでしょうか。
さらに言えば、お金を手放したいのかもしれない(『ジョジョリオン』のミラグロマン)。お金のことをあまり考えたくない。大人なのにめちゃくちゃやばい思想だ。そんなやつがこの先生きていけるのか、と自問自答する。無理かもしれない。鬱々とした気持ちになる。

たとえばこういう時、もっとシンプルに、お金がないのでお金をください、と声をかけたら、ないし、かけられたら、どうなるんだろうか。海外では、路上で施しを求める人の姿があるけど、日本ではそこまで直接的なものはあまり見ない。一昔前、というかだいぶ昔だが、傷痍軍人の方々がいただろうけど、さすがに見たことない。きっと今の日本ではあまりうまくいかないだろう。もっとシステマチックな方がいいんじゃないか。例えば「募金」。
話は脱線するけど、自分が最近、これはお金を出しやすい、と思ってるのは、マクドナルドのアプリでオーダーできるシステムで、支払う時にドナルド・マクドナルド・ハウスに募金できるやつです。

そして自分が、どうにかして、労働とか売買とかではなく、街の中で、お金を得よう(稼ぐ、ではなくて)としなければならなくなる時のことを考える。これから先、そうならないとも言えない、という気持ちが常にある。だから、求められた時に、無理のない程度に応えたいと思っているんだろう。そこに未来の自分の姿を見てる。

チキンレース

人類がまさか、この期に及んで、マスクをつけるだのつけないだのでもめることになるとは…ってしかし、人類は未だ、マスクをつけるかつけないかでもめる程度の文明しか築いていないということなんでしょうか。そして一応記しておくけど私は反マスクではない(「反マスク」って、何だよこのフレーズ)。しかし、当たり前だろうけど、マスク最高!とも思ってない。はっきり言葉にするとしたら「どうでもいい」。つけられるんだったらつけたらいい、つけられないんだったらやめればいい。ただ外してる人を見たらここ何年かの習慣でキモっと思っちゃうかもしれないだけ。あと避けるかも。まぁそのくらい。
つまり、人類全体において、ですが、身体と精神ないし理性、では一応後者が有利なんじゃないのか、と思ってたけど、そうじゃなかったという。いやこれも、薄々わかってた、それでもさ、という。結局だめだった、といいつつ、それを「だめ」と呼ぶことはないんじゃないかという気もしてる。それでしかなさ、選択できるように見えて実はできなかったという事実に基づいて生きていき、社会を維持していく。ちなみに先述の身体と精神、は近さと遠さ、と言いかえることができるかもしれない。
それと関係あるか、あんまりないかもしれないけど、夜のスーパーマーケットでレジに行列作って待って、買い物してる時の無為さ。何でこんなことしてるんだという気持ち。じゃあその解決策としてのネットスーパー、ってそれもなんか、誰かのリソースを、極めて非正規にスポイルしてスマートに生きてるふりをしてるだけじゃんと思う。Uberとかもそうですね。そうしたものに頼っていくことがうまくいくわけないじゃんと思ってたら案の定、という感じ。